先日、高知沢田マンションにお邪魔した。見学のツアーもあるらしいが、アポなしでお邪魔したので、外観のみの見学のつもりであった。けれども、沢田マンションの共用部や彼の部屋を見せてくれる人が現地で現れてくれて、丁寧に中の案内をいただいた。日差しは10月にしては強く快晴で、けれど風は心地よく、手製のリフトがゆっくりと最上階まで運んでくれた。
この沢田マンションを先に見た友人が「どのフロアにいても大地とつながっている感じがする」と言っていたが、その通り。ゆったりした開放廊下や何に使うの?と疑問符が起きるいくつかの場所など、通常の集合住宅の公私の空間領域の境界があいまいで、プロの設計者ならコストダウンのために初期に切り落としてしまうようなアイデアが散見されて面白かった。マンションだから中を見ると言ってもほとんどはいわゆる共用部分であるが、「中」、「彼の部屋」と言うのが当然に感じるような、ひとつの建物であり、街であるような、あるいはどこまでが地盤でどこからが建物かわからないイタリアやギリシャのいくつかの山岳都市を思い出した。
不動産の権利関係が戸別に設定される通常の集合住宅では、もうこんなことができる精神的、情緒的素地が日本にはほとんど無いのかもしれない。
けれど、この沢田マンションに、神宮前にあった高崎正治の結晶の色、鹿児島のなのはな館の独特な優しさ(適切な表現ではないが)をおおいに思い出した。なぜだろう。