いっとき(今もか?)、建築のファサードはダブルスキンばやりで、昨年末のベルリンでも至るところでみかけた。日本のダブルスキンがまずは建築単体のファサードの取り扱いに終始するのに比べ、ベルリンでは多くは旧東ベルリン地区の建築物のコンバーションにも用いられ、建築へ入力する日光や寒気の調節に、あるいは左右の建物とのファサードのリズムあわせなど、機能上の大儀があるように思う。大儀が有るから良し、というわけではないが、どうも日本でみるダブルスキンはだぶついた目くらましに見えてしまう。

私は、上の写真(「現代建築の構造と表現」所収)のさわやかな透明性に魅かれる。縦軸回転窓がガラスの壁に取り付き、不可視の壁が取り払われて「すがすがしくなりました」と言いたげな作者の顔が見えて、デザインの目標とその解決が理念上ぴったりと一致した穏やかな時代の意地の張らないデザインと見受ける。
さて、SSG工法やストラクチャーシール工法など、ガラス面を徹底的に平滑に作り上げる技術が拡がった現代は、薄くなるものは徹底的に薄く、細くできるものは徹底的に細く、そのうえ、コンピューターの演算能力の進歩からか、主構造体と副構造体のヒエラルキーは確固としたものではなくなり、サッシュのマリオン寸法のディメンションで悠々と建築物を支えられることも場合によっては可能となった。単なる物理的な透明性の獲得は、この数十年で飛躍的に上がったといえる。
再び上の写真について考えてみると、もし、この縦軸回転の窓がその窓枠とともに見付寸法(正面の寸法)を2倍にしたらどう見えるのだろうか?窓枠が目立ち、そこに余分な故意が見受けられるのではないか。あるいは、見付寸法を現代の日本の製品精度、施工精度にて徹底的に小さくすればどう見えるのだろうか?あまたあるカーテンウォール(CW)のオフィスビルとなんら変わらず、水平区画を表わす帯状の不透視のCWとガラスのCWのストライプ状のファサード構成に堕ちていくのではないかと思う。そして結論めくが、この写真のCWの透明性は、物理的な透明性だけでなく、実は非常に先進的な透明性を持っていると私は感じるのである。
コーリンロウの論文「透明性-虚と実」(「マニエリスムと近代建築」所収)には、以下の様にある。
---モホリは彼独自の外部の空間へと窓を開け放ったように見えるのだが、レジェの方はほとんど二次元の枠の中で創作を続けながら極めて明快な「陰」と「陽」の形態を作り上げている。このように枠をはめることにより、レジェの絵には両義的な奥行きが生まれ、モホリがジョイスの文章の中に見いだした虚の透明性が生まれているのである。---
このコーリンロウの用いたtransparantには最適な訳語はなく、本論においても訳書においても「透明性」があてがわれているが、transparantには、"物理的な透明さ"という意味の上に、"簡単に判別できる"、"明白な"という意味も同時に付与される。よって、虚の透明性とは、物理的な透明性のことではなく、彼の言葉を借りれば二次元平面の絵画に、透視図法によってではなく、三次元の存在を暗示することである。さらにロウは建築が三次元を相手にするものであるから、虚の透明性の実現は難しく、「一般に批評家は建築における透明性をもっぱら素材の透明性と結び付けたがる傾向にあった」と述べる。
もう一度、上の写真に戻る。作者はたしかに実の透明性のみを追いかけたのであろうが、窓枠や回転部分の枠見込寸法が現在の日常の寸法に近いゆえに、偶然にも虚の透明性を獲得したかに思う。窓や枠の形態やプロポーションの、日常に見受けられるそれらとの差異を意識することで、水平区画の帯状の不透視の壁の存在もあいまって、このファサード全体が、壁であるようで壁でない、そんな不思議なファサードに見えるのである。もちろんこれは、作者の意図ではないだろうが。


こんなことを考えながら、STAHが先月竣工した。既存母屋に寄り添うアトリエであり、建物の周囲は鑑賞する庭というよりも、家庭菜園のような身近な生活に密接な屋外空間である。既存母屋部分と同じRC構造躯体を用いて、2重の透明性をどのように獲得するかに重点を置いた。RC躯体の形態とプロポーションの操作によって、RC躯体でゆるやかに境界付けられていることを感じると同時に、庭にも囲まれていると感じられるような空間を作り上げたかった。