長女が生まれてすぐ、やっと光を見つめることが出来るようになった頃だったと思うが、私の顔を見るのではなく、私の手の指やその影を彼女の視線が追いかけていることが多かった。彼女の外界の、すぐそばにいる何らかの存在を私の指が代表している、いや、指そのものが独立した生き物というふうに感じていたのかもしれない。生まれたての赤ん坊に、どの程度の意識や視力、外界に対する不安があるのかは、まったくわからないが。
「相手の顔をみて挨拶をしなさい」と両親に言われて育って、また同じように、私は娘たちにそんなふうに言ったと思う。一般的には、顔がその人という存在のインデックスだと習慣的に思っているし、「顔はその人の人生を...」なんてことも言われる。
顔は、その人の内面や感情の起伏を窺い知るには、もっとも情報量の豊富な器官ではあろうが、その人の内面と、その人の顔から想起する内面の不一致に戸惑うこともしばしばである。
フランシスベーコンの一連の奇怪な顔は、彼なりの顔という不思議な器官へのオマージュなのかもしれない。彼は、怒りも笑いも憎しみも表現できる日本の能面について、どんなふうに感じていたのだろう。
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