20100316

再録 女と男のいる舗道 20061002


ゴダールは好きなのだが、疲れているときにはあまり見たくない。いろんなことを考えて頭が休めないからだ。けれど、「女と男のいる舗道」は違う。テンポも小気味良いし、何と言っても、アンナカリーナが素敵である。特に、カフェの2階でジュークボックスをかけて踊るシーンはほれぼれするほどキュートである。

スーザンソンタグの反解釈に収められているこの映画への批評では、最後に彼女が撃たれて死ぬシーンは余計であって、当時ゴダールの恋人であったアンナカリーナを映画の中で殺して現実の世界との境界を付けたかった、としているが、どうなんだろう。現実には、あれだけキュートな表情をゴダールに見せなかったのだろうか?


20100313

再録 pekaranga 20060908


ある大学の設計演習の講評会で、西沢立衛の森山邸のような散逸されたプランが散見されると聞いた。なにかさらさらと肩の力を抜いて気軽にスケッチできそうに見えて、気分がアタラシイ。森山邸は集合住宅であるようだが、個人住宅としては山本理顕の岡山の住宅が最初であろうか。ただ、私にはともに図と地の対比にしか見えない。

西澤文隆の「コートハウス論」にはpekarangaと表記されたインドネシアの民家のプランが見つけられる。上記の日本の作家のプランが図と地のパーセンテージを真似たのかと思わせるほどに、ゲンダイテキである。プランを絵とすると、顕微鏡で一滴の湖水を覗いた像のように、透明な幾つものプランクトンが、ふわふわ浮かんでいるかのようなそんな絵である。

pekarangaは観光地たるバリ島の市街地にも数々残り、表通りから少し入って住人の敵視の眼を気にしなければ、いくつも見ることが出来る。200坪くらいの敷地に、平屋建の木造の建物がそれこそ散逸的に、ひょっとすると無作為にかもしれない、そんなふうに置かれている。しかし、残った地の部分、つまり庭には、ヒンズー教にまつわる彫像や祠、毎日供えられる花などがあふれかえり、建物群が決して支配的ではなく、そこにはよそ者である私にはわからない時空間の濃淡がある。つまり、観者による分析的な図と地の境界を、充溢しているなにものかの濃淡が徹底的にあいまいにしている、敵対的にではなく、素直に。

モダニズム理論のある側面は"空間として"境界付けることであるのは間違いない。とすれば、モダニズムの空間はpekarangaに充溢しているなにものかとは共存し得ないのかもしれない。モダニズムにとっての、おぞましきものなのかもしれない。作家にとってはとりわけおぞましきものなのかもしれない。


20100310

再録 けだるい夢幻(20060830)


機会あって岐阜県各務原市の瞑想の森斎場を見ることとなった。3次元トラスウォールというのだろうか、いわゆる無柱空間に近いのだが、入れ子になった空間や間仕切り壁が多く、予想していたよりも大空間としての拡がりは感じない。

現代ではじめて可能となったコンピュータの圧倒的な計算能力による構造的な緊張感や張りがどんな風に出ているののだろうと期待を持って入ったのだが、旧来のmodern architectureの緊張感は現れておらず、屋内側の丁寧な白い吹き付けのためか、目の前にあるのに目の前にあると感じられない不思議な非現実感を感じた。表参道のtodsビルと同様、この意味で、極めて伊東的といえるのかもしれない。しかし一方で、グロッタのような、ペルツィッヒのような、けだるい夢幻を感じたのも事実である。

>>>チベット人の書いた寺院建築の理論書を読むと、寺院という建物がさしたる根拠もなく選ばれた自然数「四」をもとに構築され、そのため自然ないし大地という多様性に対してそれが本質的な異和性をもっているということを、彼らがはっきりと意識していたことがわかる。大地には、巨大な多様体を表象する「蛇」の女神が住んでいる。人はその上に、自然数「四」を基本にした形式的人工物を建てるわけだ。そこで人は、多様体なる「蛇」の上に建物を築くという人の営みの無根拠性、恣意性をはじめから意識していなければならない。(中沢新一:チベットのモーツァルト)

チベットに戻れ、などと還元主義を煽るのでは決してない。ミニマルこそ、などと言いたくない。けれど、人間には手を出してはいけない表現の領域があるのではないかと示唆するこの建築論にはうなずくことが多い。


錦鯉の里_小千谷市