ポーランド ワルシャワの歴史博物館の国際コンペ。懲りずに提出。
20090525
安吾の堕落論
堕落論、前に読んだのはもう30年も前か。大学時代だったと思う。
そのころ、白井晟一の「縄文的なるもの」に心酔し、何度も読み返した。短文であるから、写経のように書き写したこともあった。白井は、京都の公家文化は生を賭けるには、か細すぎる伝統であり、「細い棒を花や顎の上に立てて見せるこまかい芸当が、拍手されているのでなければ幸いだと思う」と書いた。最近のクールジャパンへの非難かとさえ思える。
昨今、”ものづくりの日本”と各所で語られるが、村上龍の言うように終わった時代への憧憬から引っ張り出された言い回しであろうし、精密なもの、洗練されたものを作ることにおいてのみ、そこにのみ美意識を認める今には、絶望さえ感じる。これがパラノイアでなくて何か?
大阪の中心部ではあったが、関西に生まれて育って、幼少のころから京都や奈良に連れて行かれた。東京から関西に戻った今も機会あれば京都や奈良を訪れ楽しみ、欧州においてもこれほどに見応えある、楽しみ甲斐ある都市はそう多くは無いと心から思う。もちろん、佇まいは良いのである、少しの間住んでみたいと思うし、楽しめることもあるだろう。
が、所詮、か細い<弥生>なのである。
顕微鏡的緻密さと快適を追求する洗練、ともにパラノイアックとさえ言えるほどの過剰を呼び込む工業国日本のお家芸は、70年代から80年代にかけて隆盛を極める。なぜなら、モダニゼーションに最も適した資質を持った国民が、それを最も発揮できる体制が数十年続いたからである。
失われた90年代とそれを引きづるこの約10年間、この日本が停滞し続けているのは、この国こそがモダニゼーションに最も適した体制、資質であったから故、それに対する過度の期待、夢をもう一度の憧憬、こんな心情が今も続き、モダニゼーションとは何か/何だったか、と見つめなおすことがいまだできずにいるからではないのか。
法隆寺なぞ消失しても構わない、と坂口安吾は敗戦間もない東京で言う。この語り口は一種のブラフだと言う人さえいる。
けれど、生まれ落ちたら日本人、やっぱり日本が一番、そのようなイノセントな心持ちでは先がないぜ、と安吾は60年前に語ったのだと私は思う。
20090422
J.G.Ballard
バラードが亡くなった。
10代の終わりころ、当時の創元推理文庫にあった「狂風世界」「結晶世界」「溺れた巨人」などなど...当時はただ、SFジャンルとしてしか一般的には認知されておらず(カテゴライズされておらず)、何がSFだ...西部劇みたいな勧善懲悪な、宇宙人との戦闘場面ではないぞ...と思っていた。
バラードの、黙示録的に、壊れていく...地獄の底が抜け、どんどんどこまでも壊れていく世界。
理由はわからないが、ものすごく魅かれた。
クローネンバーグが映画化する、後期の「クラッシュ」で、Rosannna Arquetteを知った。かの女優はPulp Fiction にも端役で出演。彼女は一時期、Peter Gabrielと暮らした時期があったと聞いた。
Peter GabrielがDeep Forestとコラボレーションで作った曲、”While the earth sleeps”(本当にいいタイトル)は、近未来のL.A.(実は設定は西暦2000年)を描いた”Strange Days”のテーマ曲であった。
”Strange Days”はほんの少しのハッピーエンドで終わるのだが、なんとも悲しい映画であった。エンドロールでいくつかの場面がピックアップされてこの曲が流れるのだが、映画の中の、フィクショナルな人物すべてが、当たり前なのだけど、この映画の中にしか生きてられないと感じるような、それを知った悲しさだった。
20090127
20090123
ツィゴイネルワイゼンの切通し
昨秋、機会があって鎌倉へ出向いた。東京に10年以上住みながらあまり訪ねる機会が無かった。東京の友人と久しぶりに会おうと思い立ち出かけた。東京に住んでいたころの私にはあまり鎌倉に縁が無かったのだが、実は血縁関係からすると神奈川、特に逗子、鎌倉には深い縁がある。私の3代前はあのあたりで土建会社をしていたらしく、近代以降の新しい隧道の多くを手がけていて、仕事のテリトリーは下田まであったと聞いた。
さて、鈴木清順監督のツィゴイネルワイゼンが好きで、月に一度くらいはDVDを眺めている。あの世とこの世の境い目としてでてくる隧道、釈迦堂の切通しを見たくて、まだ残暑残る鎌倉を歩いた。崩落の危険性があるのだろう、一応は通行禁止と立て札は出てはいるが、通り抜けられる。
夢と現実の境をなくしたような、奇妙な二人の男と一人の女の物語。この切通しの先には、片方の男の家がある設定でツィゴイネルワイゼンの中では、特に重要な場面にここが写される。
京都、奈良に幼いころから親しんでいた私にとって、京都、奈良は気分の落ち着くゆったりとした場所ではあるが、やはり宮廷文化、公家文化であり、今で言えばハイアートの世界である。その上、観光客は世界中から集まり、ちっぽけな祠にさえちゃんと手がかけられて、メンテされている。
比べて、一方、鎌倉は、なるほどクールジャパンのトレンドも手伝ってか、以前よりも観光化されてはいるが、京都、奈良の比ではない。明日倒れそうな地蔵を見かけたりする。まあ、文化庁の予算もまったく違うのだろう。さらに、住宅地が、この釈迦堂の切通し間際まで迫っている。
けれど、そうであるが故に余計に、今現在と500年前が居心地悪く隣り合っているような気がして、なんかの拍子に向こうへ、つつつっと、つながるような気さえした。
切通しや岩山の切り崩しを多く見ていると、これらのどれほどが自然の要衝として鎌倉を選んだ武士たちの成したものなのかはわからないが、彼らの切迫した気迫を感じた。過去の政体にはなんの由来もない政府を作り上げること、おそらくは古来からの占部に耳を傾けたかもしれないし、おだやかな弥生を通り越して、縄文の声を聞いたかもしれない。白井晟一が”縄文的なるもの”で絶賛した、韮山の江川邸を見たときのように古代につながる場所だった、私にとっては。
この切通しを抜けて、少し休憩していると、湿気と暑さでまるで夏なのに、私の吐く息が白く曇った、冬のように。ああ、彼らが来たな、と思った。
20090117
Los Angeles その2
ヨーロッパ言語のうち、ラテン系の言葉、たとえばスペイン語、フランス語では、歴史という意味の言葉に物語という意味が大きく付与されている。歴史は人間が定義する、勝者のための歴史、などなど日本でも理解されていると思う。
しかし、ある時代のある人が、過去の歴史を身のうちに引き受けて、模倣、捏造、改造、破壊、とにかく結果は問わないとして、自分の生きた時代を何かでもって表現する。このことに今の日本人は無頓着ではないか。いや、20世紀後半の他のアジアはもっとひどかった。
ヨーロッパでいつも感じたことは、いくばくかの西洋人が、自分の生きた証として、いわゆる芸術を求めているという、そのことである。何も、いつもハイアートで無くてよい。ポップでもよい。衣食住のように必要とする人たちが、数多くいるのである。
ケーススタディハウスはデザイン論としては、カリフォルニアに花咲いたモダニズム、ミッドセンチュリースタイルだろう。けれど、あれらを欲した当時のニッチは、彼らの両親の世代以上に豊かになり、彼らの両親が愛した様式を拒絶したと考えるべきではないか。
pacific parisadesにあるEames house、Veniceの小さな通り(Strongs drive)の、趣味のいい住宅群。いかにも遊びなれた、人生を楽しみ慣れた人たちの家だった。Malibuもそう。決して建築家的なアヴァンギャルドではないが、そのハイスタイルではない趣味のよさ、ハイスタイル志向のより強いヨーロッパとは異なる自由さ。
普通に格好いい、とこんなときにこそ使うのでしょうか?考えること、あまりに多かった。
たそがれ時にF.O.Gehryの自邸近くを歩く。こんなにどっしりした風格のある(言葉が見つからない)住宅だとは知らなかった。数日後、GehryのWalt Disney Hallと、KahnのSalk Instituteを見るのだが、私のKahnに対する印象が大きく変わった。
20090114
Los Angeles その1
昨年末に、景気が悪いけれど悩んでもしょうがない、エエイとばかり、LAに行った。
ドーナツ屋....まま。いわゆるダック建築。まだこんなのあるのかぁ、という感じ。日本にもたくさんあるけれど。
本当にオイル掘ってる。LAX近く。
それにしても、LA近辺のフリーウェイの車の多さ、その半分以上がいわゆるアメリカンサイズのピックアップや大型のSUV。日本で見かけると、ファンの方には申し訳ないが、無駄に大きいとしか思わない。
けれど、本国の狭いレーン、それも6車線もあるフリーウェイで大挙して走っているのを見ると、少し恐怖感を感じた。緊張して運転しているからか?阪神高速よりも狭いレーンかなと思ったからだろうか?また、飛ばす車は150kmくらいで走っているからだろうか?レンタカーの極端なアンダーステアからか?数日で慣れたけれど.
LAのMid Wilshireという地区の感じのいい住宅街。ハリウッドのショービズで働く人が多いらしい。今も個人住宅として使われているのはもうすでに非常に少なく、ほとんどがアパートメントにコンヴァートされていると聞いた。いわゆるスパニッシュスタイル、けれど、スペインの都市住宅ではなく、田舎家風。ていねいにメインテナンスされているものも多く、見ていて楽しい。ディテールもきちんとしていて、スペインに由縁のある大工さんが一生懸命作ったんだろうなという感じ。今も木製の建具が使われている建物が多く、ああ、日本では無理だなぁ、暑さ寒さがカリフォルニアとは違うから。いや、アルミサッシュが安すぎるせいか?木製サッシュが高すぎるせいか?
それにしても、歩いていて楽しい住宅街の、日本にはなんと少ないことか
20090113
Helsinki と Tullin
万年落選しながら続けている国際コンペ。昨年の11月には、恥ずかしくて言えない失敗で数時間の差でタイムアウトしたヘルシンキの大規模な計画。細かな詰めを行っていたので、非常に無念。2度とあんな失敗はしない。
現在Estonia、Tullinのコンペに奮闘中。今回は必ず提出。
previewということで。
ARU
昨年末、ARU竣工。関係者各位に深謝。
Yさんありがとうございました。もう転居されたでしょうか?
2階の光庭をぐるりと囲むプラン。予想以上に明るく、伊丹からか関空からかの飛行機のルートが真上にあるらしく、騒音はないが2階のテラスから飛行機雲を作りながら飛ぶ旅客機が見える。竣工するまで気がつかなかった。
北側道路の敷地なので、あえて道路側には法的に要求される3階の代用進入口以外を設けず、きれいな曲面を作ることだけに専念した。南側からの夏の夕日の時間帯には、真っ白の壁面がグレーになって、近隣の少しくすんだ家並みに溶け込む。夜は電線の影がこの壁面に映りこむ。この建物もゆっくりと汚れて、周囲になじんでいくのだろう。
20080425
Whisper
久しぶりの海外コンペ。建築ではなく、記念碑。
南北戦争を奴隷の身分のまま戦った、黒人兵士たちが埋葬された場所に記念碑をつくるというコンペ。よくある鎮魂碑では面白くなく、コンペの意味もないし、戦没者記念碑のような政治的な意味合いも付与したくなかった。
埋葬された棺の位置が明確になっているため、その棺の位置に、その棺の大きさの真鍮のプレートを敷き込み、そこから数本の真鍮の曲げたロッドを、草のように立ち上げる。風がそれを横切れば、ヒューと音がするだろうし、強い風が吹けばロッド同士が、隣に埋葬された彼ら同士のロッドがぶつかりあい、カンカンと音がするだろう。彼らのつぶやきか?笑い声か?泣き声か?
敷地の奥には、無数の真鍮のロッドの林を作り、それらはいまだ発見されていない、あるいは既に遺棄された彼らの仲間への鎮魂である。
20080318
洲本AMI始まる
東京に事務所のあった頃から、かれこれ洲本との付き合いは10年以上となる。レンガ造の改修、住宅やコンバーションなどなど、数々の仕事に恵まれ、たくさんの人と知り合った。プライベートなことも話せる友人も出来て、洲本の町を歩いていると、たびたび声をかけられる。叱られることも。
東京から阪神間に戻ってもう10年、夙川を散歩するのが好きで、苦楽園に今も住み続けている。住宅を依頼してくれるクライアントには必ず、「あなたが住むのは家とそして、街ですよ。」と、老婆心を持って話す。
私自身、そんな風に生きている。たしかに誰にも邪魔されたくないプライベートな時空間は必要だが、適度な情緒的な距離感を維持できるような近隣や街に住んでいる感覚こそ大事にしたい、いや、そうでなければ住んでいられない。
夫婦と子供でワンセット、こんなアメリカ型の家族形態がいまや理想でもなんでもなく、様々なヴァリエーションの家族がそれぞれのやり方で生きている。ある人は血縁関係も超えて。ある人は、たった一人で、友人たちとの関係こそが家族であるように。
こんな話をしていたら、友人たちと終の棲家を作りたい、と言う人たちが現われた。洲本の中心市街地の利便性を優先するので、郊外のコロニーのような住宅群を作るのではない。中層の集合住宅が求められた。
当初は、有志によるコーポラティブを進める予定であったが、進めるにつれ、コーポラティブ事業そのものの難しさを知った。制度上の不合理、それに直接関係する銀行融資と租税、不動産として存在する故に発生せざるを得ない権利関係、将来の相続への波及など。それまで面識の無かった人たちが有志で行う場合のほうが、コーポラティブの事業方式にフィットするのではないだろうか、おそらく日本では。
共同の終の棲家を作ろうとそれだけを純粋に考える人たちにはやはり不向きであると思う。彼らも全く同じ印象を持ったらしく、権利云々の生臭い話はプロジェクトを前に進めるにおいてやるべきでないと判断したと思う。そこで、彼らのうちの一人が所有する敷地に、事業手法としてはいわゆる賃貸住宅を進めることとなった。
総戸数9戸の賃貸住宅と共同で利用できる屋上テラス、小屋....本来のニュアンスを表現する用語がない。事業手法の用語か、抽象的な用語しかない。
1階には、このプロジェクトに賛同する若い女性が運営するカフェが入り、もちろん、一般のお客さんに向けてのお店であるが、ここに住む住人達の時折のダイニングやリビングとなるだろう。
20080213
八重山の安里勇(再録)/風土と声/volver
数年前、仕事としては続かなかったのだが、石垣島へ数度通うことがあった。仕事上の付き合いから知り合った人に美崎町の安里屋へ連れて行かれ、そこで初めて安里勇さんの八重山民謡を聞いた。店はいわゆる民謡スナックだから、ライブハウスのような音質は期待できないし、なかには話し込む客もいるから、そのときは「結構いいなぁ」程度の印象だった。酔っ払っているせいもあって、安里さんの名前も憶えず、離島する日に石垣の楽器屋で買ったCDが実は安里さんのデビューCDであったことも、後に気付いた次第であった。
音楽がそれが生まれた風土を想いおこさせる、そんな歌い手である。ライナーノーツで藤原新也さんが書くように、決して美声ではなく沖縄本島の歌い手のような洗練はないが、八重山民謡が実に八重山そのものを歌った歌であることを伝えてくれる。空と海がつながる青さやサトウキビ畑に囲まれた集落、波の音しかない砂浜。安里さんのCDを聞くたびに、そんな八重山への想いが募るのである。
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もうかれこれ20年近く前、ベネズエラ出身の友人にスペインのお土産ということで、フラメンコのCDをもらった。
Enrique MorenteのEssences FlamencasというCDで、当時の現地の大御所だったらしい。今も時折聞くのだが、素晴らしい。
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去年の秋、アルモドバルの新作ヴォルベールを観にいった。まあ、観客の少ないこと。関西ではこんなものかなあ。私もそうだが、映画館には足を運ばずに、レンタルのDVDを待つのかな。
アルモドバルらしい?、ええ!そうだったの?という起こりそうもないシナリオだが、ペネロペ・クルスが劇中で歌うフラメンコは、耳に残る。
年末の、Madridへ向かう列車で、車窓から見えるごつごつした岩と土の乾いた風景を見ながら、ipodで何度も聞いた。
この曲は、女性が歌う方が良いのかもしれない。
当然のこと、歌はペネロペの口パクで、実際に歌っているのは、先のEnriqueの娘、Estella Morenteだそうで。
20080125
バルセロナ最終日
夜21時過ぎの飛行機でbilbaoへ向かうため、barcelonaの最終日。メトロからカタロニヤ鉄道に乗り継ぎ、ガウディが途中から引き継いだサンタテレサ女学校へ向かう。周辺はbarcelonaのいわゆる山の手、神戸とは違い戸建住宅ではなく、5~7層程度の中層アパートメントが建ち並ぶ。
女学校なので、見せてくれないか?と守衛のおじさんに聞くが思ったとおり、微笑みながら「そりゃあ、無理だよ、セニョール」との返答。通りから塀越しに眺める。建設コストが厳しかったと聞くが、素晴らしい。ガウディの気持ちが十分に入った良い建物。押えた意匠でここまで見せるのはやはり天才なんだ、と実感する。
ここを卒業した人たちはこの建築とこの学校での生活を自慢できるだろう、いろんな思い出とともに。
市内のゴシック地区に戻り、Richrad Meyerの現代美術館。政治的な意味も含んだ再開発で、周辺の夜は少し危険かもしれない。美術館そのものは、Richard Meyerですね?そうですね。以上でも以下でも無し。長いスロープ(ランプ)は疲れるだけ。ホールは間延びしている。なんで、彼に頼んだんだろう。Jean Nouvel もherzogもこの美術館も、Barcelonaの最近の建築は見るべきところが無い。建築家の問題ではなくて、クライアント側に問題があるのでは、とも思いたくなる。
カタロニヤ音楽堂そばの建築。建築論からすればなんのことはない建築物であろうが、香りのする建築。私は非常に惹かれる。こんなビルにアトリエを構えられれば、最高。そんな風に思う。
そうこうするうちに、フライトの時間。荷物をホテルから引き上げ、空港へ向かう。
スペインを短期間で回ろうとする方へ。イベリア航空のウェブ発券は渡航前に日本からスケジューリングできるので楽だし、搭乗時刻を選べばびっくりするぐらい安い。約1時間のフライト(たとえばBarcelona-Bilbao)は総額50ユーロ以下、もちろん季節にもよりますが。伊丹ー羽田と比較してください。スペイン国鉄renfeの遅延や本数の少なさをさらに考えあわせれば、非常にお得な気がします。
20080108
Colonia Guel、バルセロナ近郊にて
20年前は見る機会を作れなかったコロニアグエルへ出かけた。バルセロナのメトロが工事中でカタロニア鉄道への連絡駅がメトロマップとは異なっていることを、臨時のボランティアの女の子が教えてくれた。どうもありがとう。やはり、バルセロナは国際観光都市である。少々わかりづらかったが。
コロニアグエル駅で降りて、ツーリストインフォの例のiの標識を辿って市街地に向かう。
グエル財閥は健在のようで、駅近くにはグエルと名の付く大きな工場が操業し続けている。街中心部のそのインフォメーションでは日本語のガイダンステクストもあり、コロニアグエルの中心部一体が工場で働く労働者や管理者の住宅を含んだ、集合住宅群であり、ハワードの田園都市にいくらかの影響を受けていることを知った。住宅群は何人かの建築家の担当であろうが、いくつかの住宅は今も丁寧に使われており、見るべきものがあった。
バルセロナに戻る途中で、ボフィルのオールデン7が遠くに見えるが、もういいや。寒すぎた。バルセロナ市街地に戻り、カサミラ。外観のヴォリューム、プロポーション、サッシュの納めかた、踊るようなキャストアイアン、あえて美しい、と言いたい。
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ワーロン紙かな?切り紙でシンプルに飾られた窓ガラスが質素で、なんとも優しく、機会出来た時に一度見てみたいと思っていた。 身長程度の高さのレンガタイル張りのRC帳壁の上に、大きめの磨き丸太を清潔なディテールで載せた、いわば住宅スケールの教会。 華美な装飾や具象的な彫像は無い。メンテ...