20140119

Krakow 2013

クラクフは2013年、ヨーロッパ人観光客の訪れてみたい都市の上位に入ったらしい。街を歩いていて、誰かがこう言ったのを聞いた、”Every day is on Sunday”。そのとおり、観光客が多い。多すぎる。摂氏35度を軽く超える夏、古いホテルではエアコン無く、旧市街は早朝まで若い子たちが通りで騒ぐから、窓を開ければ眠れないし。また静かな時期に訪れてみたいから、もう夏には行かないだろう。








いくつかの力強い、存在感ある建築---たいしてrestoreされていないので、よけいに印象深い。「世界遺産」登録はほとんどいつも政治的な意味を含んでいるが、クラクフにおいてはその旧市街全体が対象になったのも理解できる。ワルシャワと比べれば、ほとんど世界大戦の破壊を受けておらず、昨今の陳腐な再開発も無く、旧市街は魅力ある建築群が目白押し。いつの時代か(おそらく19世紀)、イギリス人が多数移住したらしく、洗練された、様式の混淆を見つけられる。
とはいえ、ヨーロッパの中心ではなく周辺であるから、真正にオリジナルなものはほとんど無いのだけれど、佇まいの良い建築の多いこと。





Wawelに似た、裾の広がったヴォリュームを持つ旧市街地の建築物。



Wawel近く。3層構成のルスティカ形式をなぜか、2層目だけ、それも積んだものではなく描いたもの。どうしてここで止めたのだろう。建築様式史的には、「誤り」であろうが、微笑ましい。見ていて楽しい。






Wawel。

幾度も改築、増築を重ねているが、その時々の質の高い意匠を施して、ハイブリッドというのだろうか、多層的というのだろうか。イタリア人建築家が担当したといわれる中庭。閲兵式などに使われたのか、本家と比べ、異常に広く、大きい。ディテールはイタリアにあってもおかしくないほど質が高い。ただ、大きすぎるのでは、と感じる。

イタリアの王宮前広場は、いわゆる外向けのファサードを用いているが、Wawelでは、フィレンツェにあるような個人邸宅の中庭のファサードを300%拡大コピーしたみたい。確かに王宮なのだが、商業的に成功した都市クラクフだからか、王宮も権力の強さを露骨に示す意匠ではなく、商業都市の明るさ、開放性を感じる。ヨーロッパ文化の周辺であったポーランドの王は当時の国際的な文化受容を意識的に、積極的に行っていたのではないだろうか、周辺国との関係を思慮して。王宮内部は写真撮影禁止であったけれど、家具、調度品の抑制の利いたデザインは一級品であった。



20131118

ARAH竣工

今秋、姫路市夢前町に竣工。

建築主Aさん、工務店の方々、企画事務所の方々、大変お世話になりました。深謝...







20131117

2013 Helsinki


 

アールトのフィランディアホール、少しだけ。

改修中。

外装の大理石はオープンジョイントで取り付いているみたいだが、原設計もそうだったのだろうか?非常にお粗末なディテール。先日久しぶりに訪れた、前川国男の東京文化会館のような力強さ、濃さは感じられず。

それにしても、イヴェントのある時間帯に行かないとだめだな、と思う。次回に。




ヘルシンキ駅東側の再開発エリア。Steven hollのKIASMAも見える。出来あがりつつある新しい建築は、フォルム指向一辺倒で、緩急がなく、あまり魅力が無い、中に入ってみたい気持ちが湧かない。多くのヨーロッパ中の再開発と同じ。




KIASMAで開かれていたvideo art
それほど詳しくないフィールドだけれど、本当に楽しめた。





件の再開発エリアでの仮設建築。仮設建築の設計経験はないのだが、PCの錘で建物にテンションを架けて安定させている。面白い。
隅角部はテント地でEXP-J。




20130924

wounded angel in Helsinki

 



ヘルシンキのアセニウムにて、この絵に出会う。

少女の天使と二人の少年。天使は何かにたいそう傷つき、自分の体の重みにも苦痛を感じているかのようだ。少年は天使に何が起こったのかも知らず、慰めの言葉も見つからず、けれど、天使をどこか安全な場所へ連れていこうとしている。少年たちは彼等のよく知る場所しか思い浮かばず、きっとそこへ連れていくのだろう。けれど天使がそこで癒されるかどうか、自信が無い、そんな躊躇する気持ちを抱えながら。

そこで、天使は果たして安堵するのだろうか?

象徴派と呼ばれるHugo Symbergの作品と聞いた。作者は観る者による異なるこの絵の解釈を望み、自分からはあまり発言しなかったらしい。

ヘルシンキに住むフィンランドの人によると、幼稚園のテキストにも出てくるらしい。言葉にならない思索を無理に言葉にしない、その意味でSymbergは極めてフィンランド的だと言っていた。

ああなるほど、フィンランドのnational pictureに選ばれた意味が解かった。


20130830

2013 Hvittrask_Helsinki



ヘルシンキ中央駅から西、鉄道で30分くらい。Hvittraskへ向かう。

サーリネン父が若き頃、ほか2名の建築家とアトリエを構え、住んだところ。Vittraskとは古いフィンランド語で「白い湖」という意味らしい。ロケーションは静かな湖のそば、まあ素晴らしいところ。






外観も内装は特に、マッキントッシュの影響大か?竣工時期がほぼ同じ(1903年)。プランニングには格段驚くところ無く、モダニズム以降の空間は無い。日本の大正期の財閥の別邸を見た感じ。数ある暖炉の意匠は面白いが、まあそこまで。意匠の工芸的な美しさは日本の方が見応えあり。藤井厚ニに似ている、素人っぽい。これだけ大きな建築家自身のアトリエを構えられたのに、新しい試みはどこなのだろう。




アーツアンドクラフツが皇帝や王のためのデザインではなく、市井のためのそれの運動であったことはよく理解できるが、細かなディテールが私には雑過ぎて、今であればvintageものかもしれないけれど。
いやそうではなく、民主的な街場で作られること、維持できることが大事なのかなぁと考えてしまう。いわゆる北欧デザインの多くが今、大量生産を基本としたリビングデザイン/サスティナブルなものとして考えられている素地、身の丈に合ったデザインはここにあるのかな、とも考える。けれど、このアトリエには何か淀んだものを感じてしまいます、旧ワークショップ以外は。


ヘルシンキの海沿いの工場。予備知識まったく無く、遠方から望み、きっちりと設計されたものと感じた。後日、ヘルシンキの建築美術館で1枚のパネルで紹介されていた。工業がその国の国力を象徴する、故にその景観もしっかりしたものでなければならない、という風に、そのパネルの前で示唆された。いや、日本も昔はそうでした、建築家の地位と責任は昔はもっと高かったと思い返す。自省。


20130827

2013 Helsinki



ヘルシンキのウスペンスキー大聖堂。8月の初旬、夜10時ごろ。

日が沈むころ、太陽高度の低い西陽にファサードともども、このロシア正教会の尖塔の頂部が黄金色に輝いている。本当に美しい。昼間には過剰な黄金色、下品な(失礼)装飾に見えるのだが、この時期の西陽に照らされている姿が本来の意図ではないかと思う。この写真では伝えきれていないが、頂部にこの黄金色の化粧ドームが載せられている意味が良くわかった。帝政ロシア期の数多くのファサードに黄金色の装飾が付くのは、短い夏の西陽に照らされるファサードの美しさを求めたのではないかとさえ考える。このヘルシンキのウスペンスキー大聖堂は東欧にいくつかある正教会orthodox churchとは異なり、レンガ造をファサードにあらわした大聖堂である。その理由がなぜかは知らない。ただ、建立が19世紀であることを考えると、当時の大英帝国の様式/流行の影響かとも思う。




事実、この周辺には、修復、保存、維持も行き届いた多くのレンガ造の建物が今も立派にあり、当時の貿易、経済のエネルギーを引き受けた場所であったことがよくわかる。教会といえども一種の文化移入であり、ことさら本国の意匠を引き受けるほどの帰依がなかったのだろう、と考える。強大なロシア帝国の隣国として長い間ふんばったフィンランドの歴史をもう少し知りたいと思う。

足元の数層のレンガ造建物は往年は商館や倉庫として使われたのだろうか、今はハーバー前のウォーターフロント空間として、いくつかのカフェやレストランとして使われていた。




ヘルシンキ市内の建築美術館向かいの倉庫。その美術館の館員に用途を聞いても、あまりわからず。館員はこの建築をgothic styleと呼んでいた。この呼称もイギリス的と思う。道路側に格好のいいキャノピーを増築し、今も稼動している模様。この附近にもいくつかのレンガ造建物が立派に機能している。



ヘルシンキ東の港近くの市場。市場のことをMarket Placeとフィンランドの人は愛情込めて呼ぶらしい。現在は近隣の大きなゾーンが市場、流通地区として再開発され、この建物は大きな機能を担っていない。これも同じく、レンガ造建物。教会や数層の公的な建物というビルディングタイプに当てはまらず、バンハムの第一機械時代に要請された新しいビルディングタイプ(機能-形態関係)である。建物のヴォリュームバランスが非常にいい。ベルリンのメンデルゾーンの映画館を思い出し、少しドイツっぽいなと感じた次第。


宿のすぐ近くにあったヘルシンキ大聖堂の夜景。きれいだけれど、まったく興味が沸かず。

20130520

芦屋浜_キビレ

先日、久しぶりの芦屋浜。アオコガネ¥500で遊ぶ。

小さなアタリしばしば。ゆっくりと発光ウキが沈んで、20cmオーバーのガシラ。

その後、ゆっくりと堂々とウキを沈める、いかにも大きなチヌのアタリ。

何度かアタマを左右に振って逃げにかかった。

1.2号ハリスでは心もとなく、けれど結局、タモ無しで引き抜いたのが40cm程度のキビレ。

お疲れ様でした。





20130130

高松築港駅の真鯛

琴電の高松築港駅。プラットフォームに接した高松城の堀に真鯛がのんびりと泳ぐ。めずらしい。はじめてみた時はチヌかと思ったが、良く見ると真鯛。

駅員さんに聞けば、ずいぶん昔からだと言う。

写真は昨年末。

先週は近くに重機が入っていたせいか、見当たらなかった。




 

20130114

ハッカーと画家

 私の仕事場では、以前はLANDISK、今はNSD(network Attached Storage)と呼ばれるLAN上のHDDを設けている。サーバーを置いて共有のCADデータを逐次数人で更新する必要性や迅速性への求めは感じないし、何よりも個々のCADデータに誰が責任を持つかをあいまいにするやり方を禁止している。だから、NSDはただただ、データバックアップ用の小さな1メディアとして使うのみである。

とはいえ、数年前から使用するNSDの残り容量が30%を切る状況なのでNSDのデフラグが必要だと素人ながら思い調べたところ、NSDはLINUXをOSにしているのでWindowsのようなデフラグは必要がないのだと初めて知った。

WindowsはLinuxとは異なりHDD上にデータを接近させて格納するため、後日データの一部分が変更されて大きくなり過ぎた場合を想定して、あとで変更されたデータはいったんHDD上の離れたところに格納する。そのため、HDD上のデータを効率よく(より早く)アクセスするために一連のデータ群をHDD上の近い場所に再配置するのがデフラグと言う工程らしい。それに比べLinuxは余裕をもってデ-タ配置を行うため、デフラグする必要が一般的には無いと聞いた。専門ではないのでこれ以上の説明は出来ないが。

さらにまた、多様な要求を持つプログラマーが各々によってソースを書き換えられるフレキシビリティを付与するいわゆるオープンソースとしてのLINUXには、書き換えのたびにHDD上でのデフラグを必要とするような混み合ったデータ配置が求められていない。

HDDの容量単価が今とは比較にならないほど高価だった時代にはWindowsのようなHDD上にデータを接近して配置することはHDD上のリソース消費を節約するという意味においてコスト/合理性からすれば妥当だったらしい。

つまり、ハードウェアのリソースが桁違いに大きくなって、新しい可能性を持ったLinuxというオープンなプラットフォームが顕現した、と言えるだろう。

ハッカーと画家のなかにこのような1節がある。

「100年後の物理学は必然的にはほとんど予測不可能だが、100年後のユーザを惹きつける言語を現在設計することは、原理的に可能だと・・・・考える。・・・・ハードウエアがあるかないかということを考えずに、こういうプログラムが書きたいんだ、というプログラムを書いてみることだ。100年後ではなく現在でも、無制限の容量を想像することは出来るはずだ。」

物理的な技術革新がそのフィールドのクリエイティビティを根本から前進させると真摯に考えられる、そのようなフィールドであると信じられる。こんな言葉を聞いてすばらしいフィールドだと思う。Google社で話題に上がった本であるのは頷ける。

コンピューターアーキテクチャという用語が生まれ、Architectureは出自から離れて、別のフィールドにて開花した。100年後、Architectureはその出自を消してIT用語になるのだろうか?そんな事態を考慮せずに建築家は100年後の建築フィールドのArchitectureを考えられないのかも知れまい。

シックハウスや排煙窓、開発指導要項や適合性判定、建設国債や国交省共通仕様書、こんなものにわずらわされて1日のほとんどが費やされる設計業務なるものに付き合わされて、どこに建築の将来を考えられる時間があるのだろう。自省。






20110524

苦界浄土

震災、津波、原発損壊から2ヶ月余りが過ぎた。いろんな意味でやりきれない、行き場の無い感情が積もるばかり。そう簡単には晴れないだろう。

人間のタイムスケールを超えた災厄が巨大な規模でわれわれの世界に初めて顕現した。いや、本当はそうではなく、楽観的に過ぎたわれわれの文明はその自己の技量では制御できないほどの、想定可能であったあまりに大きなリスクを、さもまったくありえないことのように、目を、耳を閉じ、それらについて思考停止していた、そんな事実が目の前に突きつけられた。けれど、これはまったく想定できなかったことではない。われわれが本気になって検討しなかっただけだ。

雑誌atプラス08号では、磯崎氏が特集「瀕死の建築」のなかで、また再び、プロジェクト(計画)の不可能性などど語っているが、そんな美学上のロジックなどでは、今日的な、311以降の議論にまったくならない。阪神大震災の後、彼は「デコンは終わった」と語ったが、また今回も同じく、美学上の閉じられたロジック内に回収してしまって、なんら建築と社会の、今こそ求められる関係性を考察していない。ずいぶん前だが、水俣病の記念館コンペの際には、イタリア人建築家案に表現された個人的な水銀の表現を1等に引き上げた、そんな磯崎氏の今回の論考に期待をして読んだのだが。

内田樹氏は彼のブログの中で、>原子力に恐れを抱くあまり>それを単なる金儲けの道具と考えることで、その恐れを忘却しようと試みた。そして、その恐れの元を蔑んだ。要約すればこんなふうに書いている。このあとを私なりに補足すれば、>ついては自己洗脳にまで到達していた...とそんな風に考える。

タルコフスキーが「サクリファイス」「ストーカー」で執拗に描いた、核を持つことで原理的に生じる、終わりのない悲哀--このように磯崎氏は、タルコフスキーのこれらの映画を「黙示録的映画」という領域にとどめてしまって、忘却させていた、というふうに語るが、同感である。また、ソ連支配下の核は、核そのものだけではなく、当時の強権政治のメタファーとしても捉えられるだろう。

黙示録的とは、起こりえるが、今は起こりえない、いつかは起こるだろうが、今ではないだろう...そんな感じなのだろうか。モダニズムの快楽は黙示録を異次元の世界へ追い込んで、どこか別の世界のことのように見せかけるほどのパワーを持っていたのだろう。これでは自己完結を促す単なる宗教ではないか。

水俣病を描いた、石牟田礼子氏の「苦界浄土」。何度も読みきろうと努力するが、いまだに読みきれていない。永遠に続くかのような悲哀を、澄み切った文体で描く石牟田氏のこの空間を今度こそ読みきろうと思う。






20100920

米葉小屋

8月27日付けの「vernacularのコンポジション」に、大学の同級生からコメントで、「ベーハ小屋」ではないか?とのサジェスチョン。そう思います、S君。

ベーハ小屋という用語を聞いたことはあったが、詳細は知らず。ネット検索してみると、タバコの葉、それもヴァージニア原産の葉を乾燥させる小屋のことだそうで、よって、「米葉」つまりベーハ小屋であるそうだ。名前の響きも良いし、名前の由来も面白い。

われわれ建築設計の専門者は、(日本人だけかな?)...地下室への採光や換気を行うための、多くは地下の屋外スペースをドライエリアと呼ぶ。ちなみに、建築基準法では、そっけなく、「空掘り」とよぶ。

以前、南米生まれの同業者から聞いたが、、「ドライエリア」のその命名は、穀物などもろもろを乾燥させる平場を意味するらしい。

だから、ドライエリアは地下とは限らず、自家製パスタを打って、乾かす中庭をドライエリアと呼ぶそうだ。南米だから、スペイン語かポルトガル語であるから、どんな語感なのだろうか?

先ごろ竣工したARAの中庭を、これから住まわれる方が、その使い方を由来に、独自に命名してくれると嬉しいな、と思う。




20100917

ARA 竣工

神戸市北区のコートハウス竣工。

ご尽力いただいた、数多くの方、深謝いたします。















錦鯉の里_小千谷市