今秋、姫路市夢前町に竣工。
建築主Aさん、工務店の方々、企画事務所の方々、大変お世話になりました。深謝...
アールトのフィランディアホール、少しだけ。
改修中。
外装の大理石はオープンジョイントで取り付いているみたいだが、原設計もそうだったのだろうか?非常にお粗末なディテール。先日久しぶりに訪れた、前川国男の東京文化会館のような力強さ、濃さは感じられず。
それにしても、イヴェントのある時間帯に行かないとだめだな、と思う。次回に。
ヘルシンキのアセニウムにて、この絵に出会う。
少女の天使と二人の少年。天使は何かにたいそう傷つき、自分の体の重みにも苦痛を感じているかのようだ。少年は天使に何が起こったのかも知らず、慰めの言葉も見つからず、けれど、天使をどこか安全な場所へ連れていこうとしている。少年たちは彼等のよく知る場所しか思い浮かばず、きっとそこへ連れていくのだろう。けれど天使がそこで癒されるかどうか、自信が無い、そんな躊躇する気持ちを抱えながら。
そこで、天使は果たして安堵するのだろうか?
象徴派と呼ばれるHugo Symbergの作品と聞いた。作者は観る者による異なるこの絵の解釈を望み、自分からはあまり発言しなかったらしい。
ヘルシンキに住むフィンランドの人によると、幼稚園のテキストにも出てくるらしい。言葉にならない思索を無理に言葉にしない、その意味でSymbergは極めてフィンランド的だと言っていた。
ああなるほど、フィンランドのnational pictureに選ばれた意味が解かった。
サーリネン父が若き頃、ほか2名の建築家とアトリエを構え、住んだところ。Vittraskとは古いフィンランド語で「白い湖」という意味らしい。ロケーションは静かな湖のそば、まあ素晴らしいところ。
日が沈むころ、太陽高度の低い西陽にファサードともども、このロシア正教会の尖塔の頂部が黄金色に輝いている。本当に美しい。昼間には過剰な黄金色、下品な(失礼)装飾に見えるのだが、この時期の西陽に照らされている姿が本来の意図ではないかと思う。この写真では伝えきれていないが、頂部にこの黄金色の化粧ドームが載せられている意味が良くわかった。帝政ロシア期の数多くのファサードに黄金色の装飾が付くのは、短い夏の西陽に照らされるファサードの美しさを求めたのではないかとさえ考える。このヘルシンキのウスペンスキー大聖堂は東欧にいくつかある正教会orthodox churchとは異なり、レンガ造をファサードにあらわした大聖堂である。その理由がなぜかは知らない。ただ、建立が19世紀であることを考えると、当時の大英帝国の様式/流行の影響かとも思う。
事実、この周辺には、修復、保存、維持も行き届いた多くのレンガ造の建物が今も立派にあり、当時の貿易、経済のエネルギーを引き受けた場所であったことがよくわかる。教会といえども一種の文化移入であり、ことさら本国の意匠を引き受けるほどの帰依がなかったのだろう、と考える。強大なロシア帝国の隣国として長い間ふんばったフィンランドの歴史をもう少し知りたいと思う。
足元の数層のレンガ造建物は往年は商館や倉庫として使われたのだろうか、今はハーバー前のウォーターフロント空間として、いくつかのカフェやレストランとして使われていた。
先日、久しぶりの芦屋浜。アオコガネ¥500で遊ぶ。
小さなアタリしばしば。ゆっくりと発光ウキが沈んで、20cmオーバーのガシラ。
その後、ゆっくりと堂々とウキを沈める、いかにも大きなチヌのアタリ。
何度かアタマを左右に振って逃げにかかった。
1.2号ハリスでは心もとなく、けれど結局、タモ無しで引き抜いたのが40cm程度のキビレ。
お疲れ様でした。
琴電の高松築港駅。プラットフォームに接した高松城の堀に真鯛がのんびりと泳ぐ。めずらしい。はじめてみた時はチヌかと思ったが、良く見ると真鯛。
駅員さんに聞けば、ずいぶん昔からだと言う。
写真は昨年末。
先週は近くに重機が入っていたせいか、見当たらなかった。
私の仕事場では、以前はLANDISK、今はNSD(network Attached Storage)と呼ばれるLAN上のHDDを設けている。サーバーを置いて共有のCADデータを逐次数人で更新する必要性や迅速性への求めは感じないし、何よりも個々のCADデータに誰が責任を持つかをあいまいにするやり方を禁止している。だから、NSDはただただ、データバックアップ用の小さな1メディアとして使うのみである。
とはいえ、数年前から使用するNSDの残り容量が30%を切る状況なのでNSDのデフラグが必要だと素人ながら思い調べたところ、NSDはLINUXをOSにしているのでWindowsのようなデフラグは必要がないのだと初めて知った。
WindowsはLinuxとは異なりHDD上にデータを接近させて格納するため、後日データの一部分が変更されて大きくなり過ぎた場合を想定して、あとで変更されたデータはいったんHDD上の離れたところに格納する。そのため、HDD上のデータを効率よく(より早く)アクセスするために一連のデータ群をHDD上の近い場所に再配置するのがデフラグと言う工程らしい。それに比べLinuxは余裕をもってデ-タ配置を行うため、デフラグする必要が一般的には無いと聞いた。専門ではないのでこれ以上の説明は出来ないが。
さらにまた、多様な要求を持つプログラマーが各々によってソースを書き換えられるフレキシビリティを付与するいわゆるオープンソースとしてのLINUXには、書き換えのたびにHDD上でのデフラグを必要とするような混み合ったデータ配置が求められていない。
HDDの容量単価が今とは比較にならないほど高価だった時代にはWindowsのようなHDD上にデータを接近して配置することはHDD上のリソース消費を節約するという意味においてコスト/合理性からすれば妥当だったらしい。
つまり、ハードウェアのリソースが桁違いに大きくなって、新しい可能性を持ったLinuxというオープンなプラットフォームが顕現した、と言えるだろう。
ハッカーと画家のなかにこのような1節がある。
「100年後の物理学は必然的にはほとんど予測不可能だが、100年後のユーザを惹きつける言語を現在設計することは、原理的に可能だと・・・・考える。・・・・ハードウエアがあるかないかということを考えずに、こういうプログラムが書きたいんだ、というプログラムを書いてみることだ。100年後ではなく現在でも、無制限の容量を想像することは出来るはずだ。」
物理的な技術革新がそのフィールドのクリエイティビティを根本から前進させると真摯に考えられる、そのようなフィールドであると信じられる。こんな言葉を聞いてすばらしいフィールドだと思う。Google社で話題に上がった本であるのは頷ける。
コンピューターアーキテクチャという用語が生まれ、Architectureは出自から離れて、別のフィールドにて開花した。100年後、Architectureはその出自を消してIT用語になるのだろうか?そんな事態を考慮せずに建築家は100年後の建築フィールドのArchitectureを考えられないのかも知れまい。
シックハウスや排煙窓、開発指導要項や適合性判定、建設国債や国交省共通仕様書、こんなものにわずらわされて1日のほとんどが費やされる設計業務なるものに付き合わされて、どこに建築の将来を考えられる時間があるのだろう。自省。
震災、津波、原発損壊から2ヶ月余りが過ぎた。いろんな意味でやりきれない、行き場の無い感情が積もるばかり。そう簡単には晴れないだろう。
人間のタイムスケールを超えた災厄が巨大な規模でわれわれの世界に初めて顕現した。いや、本当はそうではなく、楽観的に過ぎたわれわれの文明はその自己の技量では制御できないほどの、想定可能であったあまりに大きなリスクを、さもまったくありえないことのように、目を、耳を閉じ、それらについて思考停止していた、そんな事実が目の前に突きつけられた。けれど、これはまったく想定できなかったことではない。われわれが本気になって検討しなかっただけだ。
雑誌atプラス08号では、磯崎氏が特集「瀕死の建築」のなかで、また再び、プロジェクト(計画)の不可能性などど語っているが、そんな美学上のロジックなどでは、今日的な、311以降の議論にまったくならない。阪神大震災の後、彼は「デコンは終わった」と語ったが、また今回も同じく、美学上の閉じられたロジック内に回収してしまって、なんら建築と社会の、今こそ求められる関係性を考察していない。ずいぶん前だが、水俣病の記念館コンペの際には、イタリア人建築家案に表現された個人的な水銀の表現を1等に引き上げた、そんな磯崎氏の今回の論考に期待をして読んだのだが。
内田樹氏は彼のブログの中で、>原子力に恐れを抱くあまり>それを単なる金儲けの道具と考えることで、その恐れを忘却しようと試みた。そして、その恐れの元を蔑んだ。要約すればこんなふうに書いている。このあとを私なりに補足すれば、>ついては自己洗脳にまで到達していた...とそんな風に考える。
タルコフスキーが「サクリファイス」「ストーカー」で執拗に描いた、核を持つことで原理的に生じる、終わりのない悲哀--このように磯崎氏は、タルコフスキーのこれらの映画を「黙示録的映画」という領域にとどめてしまって、忘却させていた、というふうに語るが、同感である。また、ソ連支配下の核は、核そのものだけではなく、当時の強権政治のメタファーとしても捉えられるだろう。
黙示録的とは、起こりえるが、今は起こりえない、いつかは起こるだろうが、今ではないだろう...そんな感じなのだろうか。モダニズムの快楽は黙示録を異次元の世界へ追い込んで、どこか別の世界のことのように見せかけるほどのパワーを持っていたのだろう。これでは自己完結を促す単なる宗教ではないか。
水俣病を描いた、石牟田礼子氏の「苦界浄土」。何度も読みきろうと努力するが、いまだに読みきれていない。永遠に続くかのような悲哀を、澄み切った文体で描く石牟田氏のこの空間を今度こそ読みきろうと思う。
8月27日付けの「vernacularのコンポジション」に、大学の同級生からコメントで、「ベーハ小屋」ではないか?とのサジェスチョン。そう思います、S君。
ベーハ小屋という用語を聞いたことはあったが、詳細は知らず。ネット検索してみると、タバコの葉、それもヴァージニア原産の葉を乾燥させる小屋のことだそうで、よって、「米葉」つまりベーハ小屋であるそうだ。名前の響きも良いし、名前の由来も面白い。
われわれ建築設計の専門者は、(日本人だけかな?)...地下室への採光や換気を行うための、多くは地下の屋外スペースをドライエリアと呼ぶ。ちなみに、建築基準法では、そっけなく、「空掘り」とよぶ。
以前、南米生まれの同業者から聞いたが、、「ドライエリア」のその命名は、穀物などもろもろを乾燥させる平場を意味するらしい。
だから、ドライエリアは地下とは限らず、自家製パスタを打って、乾かす中庭をドライエリアと呼ぶそうだ。南米だから、スペイン語かポルトガル語であるから、どんな語感なのだろうか?
先ごろ竣工したARAの中庭を、これから住まわれる方が、その使い方を由来に、独自に命名してくれると嬉しいな、と思う。
境港から美保関へ北上。車のナビでどこか静かな海水浴場はないかと西進。その道程で見付けた、農機具小屋かと思う。同じフォルムのものを2つ、割合と近いところで見つけたので、おそらくはこの地方のヴァナキュラーだったのかもしれない。
建築のヴォリュームを一種のコンポジションと捉えれば、ヴァナキュラーな、作為のまったく無いものの中にも、おどろくほどモダンなコンポジションを見かける。そんなものを見つけた時は、そそくさと車を停めて、カメラに収めることとしている。
これらの農機具小屋をカメラに収めながら、今は亡きチャールズムーアが、ずいぶん昔の雑誌SDの特集号「スイカの思い出」で彼の訪れた建築のピンナップ写真を集めて、短文を書いていたのを思い出した。北欧、スカンディナヴィアのどこかの納屋の写真に向けて、「これほどに自然な建築を建てたい」というようなことを書いていた。
この山陰の農機具小屋にはケレン味などまったくなく、のびやかだ。大きく張り出した下屋やてっぺんに取り付けられた換気の小棟。いいものを見つけたなと思う。
スーザンソンタグの反解釈に収められているこの映画への批評では、最後に彼女が撃たれて死ぬシーンは余計であって、当時ゴダールの恋人であったアンナカリーナを映画の中で殺して現実の世界との境界を付けたかった、としているが、どうなんだろう。現実には、あれだけキュートな表情をゴダールに見せなかったのだろうか?
西澤文隆の「コートハウス論」にはpekarangaと表記されたインドネシアの民家のプランが見つけられる。上記の日本の作家のプランが図と地のパーセンテージを真似たのかと思わせるほどに、ゲンダイテキである。プランを絵とすると、顕微鏡で一滴の湖水を覗いた像のように、透明な幾つものプランクトンが、ふわふわ浮かんでいるかのようなそんな絵である。
pekarangaは観光地たるバリ島の市街地にも数々残り、表通りから少し入って住人の敵視の眼を気にしなければ、いくつも見ることが出来る。200坪くらいの敷地に、平屋建の木造の建物がそれこそ散逸的に、ひょっとすると無作為にかもしれない、そんなふうに置かれている。しかし、残った地の部分、つまり庭には、ヒンズー教にまつわる彫像や祠、毎日供えられる花などがあふれかえり、建物群が決して支配的ではなく、そこにはよそ者である私にはわからない時空間の濃淡がある。つまり、観者による分析的な図と地の境界を、充溢しているなにものかの濃淡が徹底的にあいまいにしている、敵対的にではなく、素直に。
モダニズム理論のある側面は"空間として"境界付けることであるのは間違いない。とすれば、モダニズムの空間はpekarangaに充溢しているなにものかとは共存し得ないのかもしれない。モダニズムにとっての、おぞましきものなのかもしれない。作家にとってはとりわけおぞましきものなのかもしれない。
現代ではじめて可能となったコンピュータの圧倒的な計算能力による構造的な緊張感や張りがどんな風に出ているののだろうと期待を持って入ったのだが、旧来のmodern architectureの緊張感は現れておらず、屋内側の丁寧な白い吹き付けのためか、目の前にあるのに目の前にあると感じられない不思議な非現実感を感じた。表参道のtodsビルと同様、この意味で、極めて伊東的といえるのかもしれない。しかし一方で、グロッタのような、ペルツィッヒのような、けだるい夢幻を感じたのも事実である。
>>>チベット人の書いた寺院建築の理論書を読むと、寺院という建物がさしたる根拠もなく選ばれた自然数「四」をもとに構築され、そのため自然ないし大地という多様性に対してそれが本質的な異和性をもっているということを、彼らがはっきりと意識していたことがわかる。大地には、巨大な多様体を表象する「蛇」の女神が住んでいる。人はその上に、自然数「四」を基本にした形式的人工物を建てるわけだ。そこで人は、多様体なる「蛇」の上に建物を築くという人の営みの無根拠性、恣意性をはじめから意識していなければならない。(中沢新一:チベットのモーツァルト)
チベットに戻れ、などと還元主義を煽るのでは決してない。ミニマルこそ、などと言いたくない。けれど、人間には手を出してはいけない表現の領域があるのではないかと示唆するこの建築論にはうなずくことが多い。
山崎さんのスピード感のあるプレゼンテーションは魅力ありますが、手放しで褒め上げるものでしょうか?すべての道路を未来に向けて、より利用しやすいような再インフラ化を促すことには大賛成ですが、全国津々浦々の幹線道路沿いに拡がる全国ネットの店舗や2番煎じ、コンビニ化した安物の景観しか作れていない我々が、どのような根本的な変化を生み出せるのか、解かりません。街も景観も人が作るものです。さらなる利便性がもたらす時空間がどのようなものであり、それがどのように人の内面を変えていくのか、解かりません。ここをおざなりにすると、LA近郊と変わらないことになりはしませんか?きれいに描きすぎのシナリオと感じました。
また、フランスのオーベルジュは年間休暇が習慣化しているフランス特有な労働環境あってのものですし、現在多くは陳腐化しています。都市と農村、郊外との関係は、交通インフラの利便性だけで整理、再構築できるものではないと思います。
中央集権的ではない、群島(アーキペラーゴ)的な国土のあり方、それが引き寄せる人心などについては、すでに建築-都市論、交通論、インフラ論の分野ではまっさらな理論ではありません。
ある目標を志向し、膨大な各研究を横断的に扱える立場が存在しなかったことが、この国の残念なところだったと理解しますが、安易な横断化、シナリオ化には少々疑問を感じます。
スペインやオーストラリアに引退後移住する人は、九州をフロリダ化すれば行かなくなるだろうとは、少々乱暴でしょう。アメリカの、日本とは異なるさっぱりした家族関係があるからこそ、フロリダがあるのではないでしょうか。海外に引退後移住する人は血縁関係を疎遠にすることになっても海外へ移住したい各々の理由があるでしょう。仮に、ある歴史を認識できる国、街だとしても、そこに対する事前の関わりがなければ、その人にとって、にわか作りの田園、郊外と変わらないものになるのだと考えます。高速道路のより利用しやすい再インフラ化は、都市と地方のお互いの心的、情緒的関係を変化させ、また新たに作り出すことになるでしょうし、まずはそこから始まると考えるべきだと思います。地方の再コンビニ化ではなく。
太陽経済への移行への技術的方法論はすでにあるのでしょう。けれど、日本の技術をどのように外貨化するかにとどまったように見える山崎さんのコメントは物足りませんでした。経済的に恵まれ、精緻な技術力を持つ日本こそが、このような新しい文明形態をシミュレートし、世界中にそれを視覚化する、日本こそが可能な新しいリーダーシップの取り方、先進国の義務だと思うのですが。
Jポップの歌い手でも今はアーティストと呼ぶらしい。いまに吉本の芸人もアーティストと呼ばれるのだろう。今日の疲れへのリフレッシュ、それ以上でも以下でもないなら、artと呼ぶ必要は無いだろう。
それを経験したことで、自分の意識の一部のバイアスが取れて、違う世界の一片をみてしまった、もう後には戻れない、そんな経験を引き起こす媒体をartだと呼ぼうと思っている。ハイアートであろうと、サブカルチャーであろうと、自然現象であろうと。その時々に、私にとって。
最初に見たのは、私の東京在住最後の年、1986年の大規模なロスコ展であった。「シーグラム絵画」のいくつかを見たと思う。比較的明るめの展示室だったと思う。ロスコ作品のその大きさか、その鉄色か..何が引き起こすのかわからないが、私の意識の中にこの作品群を受け入れることのできる素地があったのか、心の奥底にこんな洞窟があったのか、そんな感じだった。
昨年末、機会あって千葉、佐倉市の川村記念美術館を訪ね、久しぶりにロスコを目にした。やはり、十数年前と同じ。違う世界への門、窓、扉と言う人は多いし、確かにそうなのだが。
得体の知れないものへ開かれる恐怖、そんな感じ。封印された何かが詰まった箱、それを手にした時の恐怖。いまだ命名されていない何かへの恐怖。わたしはそう感じる。
そこにはそれがないが、それがどこかに絶対に在ることを示している、だから、徴である。
先日、高知沢田マンションにお邪魔した。見学のツアーもあるらしいが、アポなしでお邪魔したので、外観のみの見学のつもりであった。けれども、沢田マンションの共用部や彼の部屋を見せてくれる人が現地で現れてくれて、丁寧に中の案内をいただいた。日差しは10月にしては強く快晴で、けれど風は心地よく、手製のリフトがゆっくりと最上階まで運んでくれた。
この沢田マンションを先に見た友人が「どのフロアにいても大地とつながっている感じがする」と言っていたが、その通り。ゆったりした開放廊下や何に使うの?と疑問符が起きるいくつかの場所など、通常の集合住宅の公私の空間領域の境界があいまいで、プロの設計者ならコストダウンのために初期に切り落としてしまうようなアイデアが散見されて面白かった。マンションだから中を見ると言ってもほとんどはいわゆる共用部分であるが、「中」、「彼の部屋」と言うのが当然に感じるような、ひとつの建物であり、街であるような、あるいはどこまでが地盤でどこからが建物かわからないイタリアやギリシャのいくつかの山岳都市を思い出した。
不動産の権利関係が戸別に設定される通常の集合住宅では、もうこんなことができる精神的、情緒的素地が日本にはほとんど無いのかもしれない。
けれど、この沢田マンションに、神宮前にあった高崎正治の結晶の色、鹿児島のなのはな館の独特な優しさ(適切な表現ではないが)をおおいに思い出した。なぜだろう。