火の見やぐら、なんて言葉はもう死語でしょう。
盛岡には、今も現役の火の見やぐら「番屋」が生きていて、消防車が格納されている。住宅スケールの勾配屋根に、何か海の生き物の形をしたようなやぐらが載っかってて、可愛らしいというか何というか。
五戸にもあった。
これからも大事にしてもらって、直しながらぜひ使い続けて欲しいなぁと素直に思います。
火の見やぐら、なんて言葉はもう死語でしょう。
盛岡には、今も現役の火の見やぐら「番屋」が生きていて、消防車が格納されている。住宅スケールの勾配屋根に、何か海の生き物の形をしたようなやぐらが載っかってて、可愛らしいというか何というか。
五戸にもあった。
これからも大事にしてもらって、直しながらぜひ使い続けて欲しいなぁと素直に思います。
オッサンひとりで観覧車に乗ることなど、特別な理由が無ければまずやらない。その特別な理由とは、鹿児島中央駅の駅ビル屋上には観覧車があって、そこからは桜島を遠望できること。
阿呆は高いところに登るというが、文字通りそのまんま。そんな阿呆は万国共通のようで、観覧車を降りたら、旅行客であろうアジア人や白人のオッサンたちもたくさん、観覧車の列に並んでいた。
でも考えてみたら、そこそこの都市のすぐそばにある活火山なんて、日本を除いたら、ナポリ近くのベスビオ火山くらいでしょう。そりゃあ、珍しいよな、見たいよな。
「も」だけが書かれて、
作者たちの日々の楽しみ。
何より作者自身のための創作。ケレン味などありはしない。
それどころか、H・ダーガーのように、創作を誰にも見せずに、封印したかったものもあるんじゃないだろうか。
見れて、よかった。
(つくる冒険 日本のアール・ブリュット45人 滋賀県立美術館)
先日、旅先の地方都市を歩いていたら、小さな古書店の前を偶然に通りかかって、その小さなショーウインドウに「今週のおすすめ」みたいな感じでこの本が飾られていた。とても懐かしくて譲ってもらった。
実は、この本そのものが懐かしいわけではなくて、この本の表紙のLe puyの礼拝堂には、学生の頃訪ねたことがあったからである。「ああ、こんなところに行ったんだった。」と。
当時はネットなんかもちろん無いから、ヨーロッパの建築の情報は極めて限られていて、大学の副教材だった「西洋建築図集」のなかに、数枚の小さくて印刷の荒い白黒写真を見ただけだった。けれど、それらの小さな数枚の写真に魅せられて、岩山に頂くこのフレンチロマネスク教会を訪れた。
この写真から素直に想像できるように、礼拝堂に到る階段はたいへん急で、息を上げながら登って行った。堂の前に着いたら、オープン時間を少し過ぎているのだけれど、入り口の扉は締まっている。どうしたものか、と考えていたら、下から、はあはあとの息遣いとともに、ピンク色のコートを着た少女が頬を赤くさせて上がってきた。下にある教会の牧師さんの娘さんで、鍵番だった。「お客さんがこんなに早く来るとは思ってなかった」なんて声をかけてくれて、扉の鍵を開けてくれた。「スケッチをしたいから30分くらい居たい」と伝えて堂内に入った。
礼拝堂のなかはほの暗く、目が慣れて初めていろいろと見えてくる。
黒いペンがインク切れしていて、鉄道旅行のガイドブック(トーマスクック)に赤入れする赤ペンしか持ち合わせてなかった。
1984年4月12日と記してあるから、もう40年も前のこと。
時々Jandekの声を聴く。
いわゆる、心地よい”調べ”をつくれない、上手になれない音階--我々は聞き馴れない--と、消え入りそうなLyric...けれど、もうちょっと聴いてみようとする。
JandekのこのYoutubeに200近いコメントがあるのを見て、そこにコメントを残そうとする人が少なからずいるのを見て、それらのコメントのいくつかが実に切実に彼らの心を語っているのを知って、私は安心する。Jandekの空気を必要とする人たちがいろいろなところにいる。
白山神社 新潟県糸魚川市
恐らくは、屋根瓦では凍害が現れることが主因であろうかと思うが、東北の寺社には茅葺が多い。そしてその維持には、茅葺職人を含めた地元でオーガナイズされた組織や茅を安定して調達できる環境-風土も必要だろう。また、現代であれば、瓦葺き以上に手間も、恐らくコストも求められるのだろう。
茅葺屋根は、寺社の大きな屋根架構に載ると、その茅の刈り込みの手際も相まって、風格のあるものに仕上がる。その一方、丸みを帯びた茅葺屋根が民家にも至極普通に用いられているからであろう、馴染みが深く、優しい。
旧朴舘家住宅 岩手県二戸郡一戸町
これは寺社ではないのだが、十七間×九間(30M×16M)のとても大きな豪農の民家。残雪が載ったままの大きな屋根とそれを支える、豪雪地帯の大屋根を支えるための柱、梁、束、貫...丸太垂木... 。特に柱は強度に勝る栗材が用いられているらしい。
白井晟一の“縄文的なるもの”のなかの一文「茅山が動いてきたような茫莫たる屋根と...」を想い出す。
誰が書いたのだったか、FLライトのNYグッゲンハイムは、そのスロープが、力学的構造と動線と意匠を一体的に規定しているので、なので傑作とは言えない、とかなんとか、読んだことがある。私の記憶の中で脚色しているかもしれないが。
ただ、RC構造のNYグッゲンハイムに較べてみれば、木造で造られた会津さざえ堂の二重らせんは、その表現はよりストレートである。
スロープだけで構成されたところのいわゆる”さざえ堂”形式は日本国内にいくつかあり、とはいえ、NYグッゲンハイムと同じく、世界的に希少といえる形式だといえるだろう。会津さざえ堂は、本流の”日本建築史”にはほとんど相手にされずとも、特に建築プロパー界隈ではよく知られている。
基本的に線材の構造体(柱梁)を現わす(見せる)日本建築は、その構造手法と空間構成原理が密接に、それも宿命的に連関している。となれば、会津さざえ堂は、そのような手法で造られたダイナミックな二重らせんを描くスロープ構造しかない、ほぼないとさえ言えて、それはそのままストレートでダイナミックな表現に結実している。
外観に二重らせんがそのまま反映され、斜めに架かる桁や貫が、水平面から大きな勾配を伴って上昇していく力強さは、素晴らしい。ディテールが簡素なので、よけいに力強い。
また、その堂内のきつい斜路はまるで山間を歩くような動作を要求される。けれどなぜか、どこか気楽な印象を受ける。
最後に弘前禅林街のさざえ堂。会津ほどの力強さは無い。
これでは、もっとよく見たい、中に入りたいという気持ちは起きない。
インバウンドやら、何とか映えとか、もうちょっと静かに旅させてくれよ、と思うばかりの今日この頃。たとえ静かに巡りたいところであっても、TVや雑誌やwebで一度紹介されれば、瞬く間にお客さんであふれ、交通も宿もひっ迫し、価格も高騰。
20代のころ、南仏のサントロペが、かのパリ人の間での人気に火がついて、静かな休息を望む人々が滞在先から外したと聞いたのだが、昨今は似たようなことがもう世界中で起こっている。
石垣島には随分ご無沙汰しているのもそんな理由からなのだが、その当地の知り合いにこんなふうに言われたことがある。「鳥取って砂丘以外に観るもんあるの?」。いや、ね、大してないから人気ないし、だから静かだし、時々行きたくなるんです、冬にはヒラメを食べに行くんです、と答えた。
鳥取の中心市街地はその他の地方都市同様、いわゆる歯抜け状態で、年季の入った建物とバブッた時期の建物が混在している。そんな街区をゆっくり歩きながらその様相や込み入っているであろう隣接地との関係などを観察しながら、その建物のプロファイルというんでしょうか、履歴というんでしょうか、そんなものを想像してみるのは、酒の肴にちょうどいい。何かの結論を付けることなどせず、ほろ酔いアタマでぼやっと考えるのが楽しいのです。
この建物は、どうしてここまでトタンの波板で補修し続けてるのだろうか?ずいぶん錆びついた真っ茶色の部分とそれより新しいけれど数十年は経ってる部分がある、その他いろいろもあって、ということは、もう昭和から平成にかけて、何度も修繕し続けてるに違いない。下から波板を挿し入れて、補修したのだろうな。また、軽自動車が停まっているところ、つまりこの建物の後ろ半分には昔日、片流れ屋根の小さな建物がくっついていたのではなかろうか?
よう知らんけど。
補修のその手直しの技術や精度は、「漏れなきゃええ」程度の決して頑張ったものではないが、建物そのものが「俺はここにおるぞ」と強弁しているように感じられて、「でもあんた、満身創痍じゃん」と返しつつ、立ち止まって写真を撮ってしまう。
そして次は横綱級。
鳥取駅から少し離れた川沿いの、かつては街工場が勢いあったような地区。この3枚の画像は同じ建物であるのだが、この迫力はすごい。
アブストラクト彫刻のようなヴォリューム構成、それらの壁面はそれぞれテクスチャ感満載、もうプロファイリングなんて出来そうもないくらいの複雑さ、なんでこんな風にデッコンンボッコンになったの??昔は隣にどんな建物がくっついてたの?
いやはや、面白い。
こんな鳥取の「詠み人しらず」に大きく拍手。
日本書紀にて、イザナミノミコトが埋葬された熊野の花の窟神社。まあ、神話ですが。
ご神体はこの巨石。
古代の人々が、なんか凄いな、と感じてお祀りして差し上げて、昨日の私もまたやはり、なんか凄いな、と感じる。
時おり、古代は遠くないな、と感じることがあるのです。
兵庫県山間部の鉱山ー精錬所の産業遺構。
大きな円形の屋根は沈殿プールを支持するコンクリート製のスラブ。
こんな産業遺構に対しての、新しい活用事業プログラムと構造物改修のアイデアを求めるコンペティション、ないかな。新築の建物がブランドニューのコンセプトを纏って何やかやすべてを一気に解決できる、と思えるような時代ではないと思うから。
ヨーロッパやUSではそんなような地道なコンペティション、時々あるんだけど。
数年前のコロナ前、名護のヘリオス酒造へ見学に行って、この黒糖酒を名護本社からたくさん送ってもらおうとしたのだけれど、本社のそのショップでは、たくさん造らないので今切らしています、と言われました。
言い替えれば、時々造りますからその時に買ってね、と。
沖縄の夏にも合うのだろうな、ゆる~いなが~い酔いを、この黒糖酒はもたらしてくれます。ずいぶん本島に行かなかったので忘れてたら、ヘリオス酒造はこの黒糖酒の製造をどうやら止めるようで、すごくすごく残念。
ラベルのレタリングもいいよな。
マティスの切り絵の組み本の実物を見れるから、と和歌山県立美術館に出向いた。
彼は高齢での大きな手術で体力を落として大作を描くことができなくなり、切り絵の創作を始めたと聞いた。
けれど、年齢を感じない素晴らしく快活な作品。かつ、接して元気になる作品。
私自身も一日に数時間しか作業ができなくなったことを理由に最近設計事務所を閉めた。だからか、彼の気持ちが想像できる気がする。
ただ、まだ私には長い時間をかけずに完成度を上げる、かつ楽しめるメソッドが、見つかっていない。とはいえ、もう少し長い目で見てみましょう。
当時上町台地の西端に住んでいたので、北西の千日前の空が深夜に真っ赤に染まっていたのを憶えている。
親友の一人はこの事故で父親を亡くした。その後、特段の言葉を交わすことなく、彼はどこかへ引っ越していった。経済的な大黒柱を失ったから、親族のどこかへ身を寄せたのだろう。
あれから50年か。
彼が今日どこかで元気にいてくれることを願う。
https://mainichi.jp/articles/20220512/k00/00m/040/225000c
ポーランド南東部に散在するいくつかの木造教会とsanokの小さな広場。
木造教会群は世界遺産に登録されているけれど、日本で傑作とされる多くの木造建築に見られるような匠の技を見つける建築ではない。今も近所の大工さんが暇を見つけてちょこっと修理するようなそんな代物。
けれど、大地から生えてきたような独特の形態や小さな窓しかない暗い堂の粗削りな家具や彫刻や調度品がものすごく濃密な場所を作り出していることにとても感銘を受けた。東北のいくつかの古寺や白井晟一を思い出した。
白井晟一の言葉を借りれば「細い棒を鼻やあごの上に立てて見せるこまかい芸当」などでは一切ない。
さて、当時はほとんどお客さんがいなかった。今はどうなんだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/マウォポルスカ南部の木造聖堂群
2013年にポーランド南東部にあるいくつかの木造教会を尋ねようとkrakowでレンタカーを借りた。ハーツレンタカーで「ウクライナに入国しないこと」と誓約書を書かされた。手続きしてくれたお兄さんに理由を尋ねると、警察の腐敗がひどいから、もし事故を起こしたら、ウクライナ語かロシア語に堪能でない限り、法外な賄賂を要求され、もちろんクルマの修理代もポーランドの数倍取られるから、と言っていた。
けれど、ウクライナはそれから大統領が代わり、今のゼレンスキー氏に代わって国民の大多数が必死で公平な社会を作ろうとしている最中であると思う。前近代ままのロシア政府に再度牛耳られるような社会への逆戻りなどまっぴらだろう。なんとか、早く収まってほしい。
写真はウクライナ国境から20kmほどに位置するsanokという小さな町の民族学博物館。ロシアイコンの豊かな収集があると聞いて、イコン好きの身として、立ち寄った場所。こんなに多数のイコンを見れることなど、日本の企画展ではまずありえない。本当に楽しめた。
このsanokにも、今はウクライナから避難してきた人々がいるのだろうな。この美術館に隣接する小さな広場を思い出す。