先日、久しぶりの芦屋浜。アオコガネ¥500で遊ぶ。
小さなアタリしばしば。ゆっくりと発光ウキが沈んで、20cmオーバーのガシラ。
その後、ゆっくりと堂々とウキを沈める、いかにも大きなチヌのアタリ。
何度かアタマを左右に振って逃げにかかった。
1.2号ハリスでは心もとなく、けれど結局、タモ無しで引き抜いたのが40cm程度のキビレ。
お疲れ様でした。
先日、久しぶりの芦屋浜。アオコガネ¥500で遊ぶ。
小さなアタリしばしば。ゆっくりと発光ウキが沈んで、20cmオーバーのガシラ。
その後、ゆっくりと堂々とウキを沈める、いかにも大きなチヌのアタリ。
何度かアタマを左右に振って逃げにかかった。
1.2号ハリスでは心もとなく、けれど結局、タモ無しで引き抜いたのが40cm程度のキビレ。
お疲れ様でした。
琴電の高松築港駅。プラットフォームに接した高松城の堀に真鯛がのんびりと泳ぐ。めずらしい。はじめてみた時はチヌかと思ったが、良く見ると真鯛。
駅員さんに聞けば、ずいぶん昔からだと言う。
写真は昨年末。
先週は近くに重機が入っていたせいか、見当たらなかった。
私の仕事場では、以前はLANDISK、今はNSD(network Attached Storage)と呼ばれるLAN上のHDDを設けている。サーバーを置いて共有のCADデータを逐次数人で更新する必要性や迅速性への求めは感じないし、何よりも個々のCADデータに誰が責任を持つかをあいまいにするやり方を禁止している。だから、NSDはただただ、データバックアップ用の小さな1メディアとして使うのみである。
とはいえ、数年前から使用するNSDの残り容量が30%を切る状況なのでNSDのデフラグが必要だと素人ながら思い調べたところ、NSDはLINUXをOSにしているのでWindowsのようなデフラグは必要がないのだと初めて知った。
WindowsはLinuxとは異なりHDD上にデータを接近させて格納するため、後日データの一部分が変更されて大きくなり過ぎた場合を想定して、あとで変更されたデータはいったんHDD上の離れたところに格納する。そのため、HDD上のデータを効率よく(より早く)アクセスするために一連のデータ群をHDD上の近い場所に再配置するのがデフラグと言う工程らしい。それに比べLinuxは余裕をもってデ-タ配置を行うため、デフラグする必要が一般的には無いと聞いた。専門ではないのでこれ以上の説明は出来ないが。
さらにまた、多様な要求を持つプログラマーが各々によってソースを書き換えられるフレキシビリティを付与するいわゆるオープンソースとしてのLINUXには、書き換えのたびにHDD上でのデフラグを必要とするような混み合ったデータ配置が求められていない。
HDDの容量単価が今とは比較にならないほど高価だった時代にはWindowsのようなHDD上にデータを接近して配置することはHDD上のリソース消費を節約するという意味においてコスト/合理性からすれば妥当だったらしい。
つまり、ハードウェアのリソースが桁違いに大きくなって、新しい可能性を持ったLinuxというオープンなプラットフォームが顕現した、と言えるだろう。
ハッカーと画家のなかにこのような1節がある。
「100年後の物理学は必然的にはほとんど予測不可能だが、100年後のユーザを惹きつける言語を現在設計することは、原理的に可能だと・・・・考える。・・・・ハードウエアがあるかないかということを考えずに、こういうプログラムが書きたいんだ、というプログラムを書いてみることだ。100年後ではなく現在でも、無制限の容量を想像することは出来るはずだ。」
物理的な技術革新がそのフィールドのクリエイティビティを根本から前進させると真摯に考えられる、そのようなフィールドであると信じられる。こんな言葉を聞いてすばらしいフィールドだと思う。Google社で話題に上がった本であるのは頷ける。
コンピューターアーキテクチャという用語が生まれ、Architectureは出自から離れて、別のフィールドにて開花した。100年後、Architectureはその出自を消してIT用語になるのだろうか?そんな事態を考慮せずに建築家は100年後の建築フィールドのArchitectureを考えられないのかも知れまい。
シックハウスや排煙窓、開発指導要項や適合性判定、建設国債や国交省共通仕様書、こんなものにわずらわされて1日のほとんどが費やされる設計業務なるものに付き合わされて、どこに建築の将来を考えられる時間があるのだろう。自省。
震災、津波、原発損壊から2ヶ月余りが過ぎた。いろんな意味でやりきれない、行き場の無い感情が積もるばかり。そう簡単には晴れないだろう。
人間のタイムスケールを超えた災厄が巨大な規模でわれわれの世界に初めて顕現した。いや、本当はそうではなく、楽観的に過ぎたわれわれの文明はその自己の技量では制御できないほどの、想定可能であったあまりに大きなリスクを、さもまったくありえないことのように、目を、耳を閉じ、それらについて思考停止していた、そんな事実が目の前に突きつけられた。けれど、これはまったく想定できなかったことではない。われわれが本気になって検討しなかっただけだ。
雑誌atプラス08号では、磯崎氏が特集「瀕死の建築」のなかで、また再び、プロジェクト(計画)の不可能性などど語っているが、そんな美学上のロジックなどでは、今日的な、311以降の議論にまったくならない。阪神大震災の後、彼は「デコンは終わった」と語ったが、また今回も同じく、美学上の閉じられたロジック内に回収してしまって、なんら建築と社会の、今こそ求められる関係性を考察していない。ずいぶん前だが、水俣病の記念館コンペの際には、イタリア人建築家案に表現された個人的な水銀の表現を1等に引き上げた、そんな磯崎氏の今回の論考に期待をして読んだのだが。
内田樹氏は彼のブログの中で、>原子力に恐れを抱くあまり>それを単なる金儲けの道具と考えることで、その恐れを忘却しようと試みた。そして、その恐れの元を蔑んだ。要約すればこんなふうに書いている。このあとを私なりに補足すれば、>ついては自己洗脳にまで到達していた...とそんな風に考える。
タルコフスキーが「サクリファイス」「ストーカー」で執拗に描いた、核を持つことで原理的に生じる、終わりのない悲哀--このように磯崎氏は、タルコフスキーのこれらの映画を「黙示録的映画」という領域にとどめてしまって、忘却させていた、というふうに語るが、同感である。また、ソ連支配下の核は、核そのものだけではなく、当時の強権政治のメタファーとしても捉えられるだろう。
黙示録的とは、起こりえるが、今は起こりえない、いつかは起こるだろうが、今ではないだろう...そんな感じなのだろうか。モダニズムの快楽は黙示録を異次元の世界へ追い込んで、どこか別の世界のことのように見せかけるほどのパワーを持っていたのだろう。これでは自己完結を促す単なる宗教ではないか。
水俣病を描いた、石牟田礼子氏の「苦界浄土」。何度も読みきろうと努力するが、いまだに読みきれていない。永遠に続くかのような悲哀を、澄み切った文体で描く石牟田氏のこの空間を今度こそ読みきろうと思う。
8月27日付けの「vernacularのコンポジション」に、大学の同級生からコメントで、「ベーハ小屋」ではないか?とのサジェスチョン。そう思います、S君。
ベーハ小屋という用語を聞いたことはあったが、詳細は知らず。ネット検索してみると、タバコの葉、それもヴァージニア原産の葉を乾燥させる小屋のことだそうで、よって、「米葉」つまりベーハ小屋であるそうだ。名前の響きも良いし、名前の由来も面白い。
われわれ建築設計の専門者は、(日本人だけかな?)...地下室への採光や換気を行うための、多くは地下の屋外スペースをドライエリアと呼ぶ。ちなみに、建築基準法では、そっけなく、「空掘り」とよぶ。
以前、南米生まれの同業者から聞いたが、、「ドライエリア」のその命名は、穀物などもろもろを乾燥させる平場を意味するらしい。
だから、ドライエリアは地下とは限らず、自家製パスタを打って、乾かす中庭をドライエリアと呼ぶそうだ。南米だから、スペイン語かポルトガル語であるから、どんな語感なのだろうか?
先ごろ竣工したARAの中庭を、これから住まわれる方が、その使い方を由来に、独自に命名してくれると嬉しいな、と思う。
境港から美保関へ北上。車のナビでどこか静かな海水浴場はないかと西進。その道程で見付けた、農機具小屋かと思う。同じフォルムのものを2つ、割合と近いところで見つけたので、おそらくはこの地方のヴァナキュラーだったのかもしれない。
建築のヴォリュームを一種のコンポジションと捉えれば、ヴァナキュラーな、作為のまったく無いものの中にも、おどろくほどモダンなコンポジションを見かける。そんなものを見つけた時は、そそくさと車を停めて、カメラに収めることとしている。
これらの農機具小屋をカメラに収めながら、今は亡きチャールズムーアが、ずいぶん昔の雑誌SDの特集号「スイカの思い出」で彼の訪れた建築のピンナップ写真を集めて、短文を書いていたのを思い出した。北欧、スカンディナヴィアのどこかの納屋の写真に向けて、「これほどに自然な建築を建てたい」というようなことを書いていた。
この山陰の農機具小屋にはケレン味などまったくなく、のびやかだ。大きく張り出した下屋やてっぺんに取り付けられた換気の小棟。いいものを見つけたなと思う。
スーザンソンタグの反解釈に収められているこの映画への批評では、最後に彼女が撃たれて死ぬシーンは余計であって、当時ゴダールの恋人であったアンナカリーナを映画の中で殺して現実の世界との境界を付けたかった、としているが、どうなんだろう。現実には、あれだけキュートな表情をゴダールに見せなかったのだろうか?
西澤文隆の「コートハウス論」にはpekarangaと表記されたインドネシアの民家のプランが見つけられる。上記の日本の作家のプランが図と地のパーセンテージを真似たのかと思わせるほどに、ゲンダイテキである。プランを絵とすると、顕微鏡で一滴の湖水を覗いた像のように、透明な幾つものプランクトンが、ふわふわ浮かんでいるかのようなそんな絵である。
pekarangaは観光地たるバリ島の市街地にも数々残り、表通りから少し入って住人の敵視の眼を気にしなければ、いくつも見ることが出来る。200坪くらいの敷地に、平屋建の木造の建物がそれこそ散逸的に、ひょっとすると無作為にかもしれない、そんなふうに置かれている。しかし、残った地の部分、つまり庭には、ヒンズー教にまつわる彫像や祠、毎日供えられる花などがあふれかえり、建物群が決して支配的ではなく、そこにはよそ者である私にはわからない時空間の濃淡がある。つまり、観者による分析的な図と地の境界を、充溢しているなにものかの濃淡が徹底的にあいまいにしている、敵対的にではなく、素直に。
モダニズム理論のある側面は"空間として"境界付けることであるのは間違いない。とすれば、モダニズムの空間はpekarangaに充溢しているなにものかとは共存し得ないのかもしれない。モダニズムにとっての、おぞましきものなのかもしれない。作家にとってはとりわけおぞましきものなのかもしれない。
現代ではじめて可能となったコンピュータの圧倒的な計算能力による構造的な緊張感や張りがどんな風に出ているののだろうと期待を持って入ったのだが、旧来のmodern architectureの緊張感は現れておらず、屋内側の丁寧な白い吹き付けのためか、目の前にあるのに目の前にあると感じられない不思議な非現実感を感じた。表参道のtodsビルと同様、この意味で、極めて伊東的といえるのかもしれない。しかし一方で、グロッタのような、ペルツィッヒのような、けだるい夢幻を感じたのも事実である。
>>>チベット人の書いた寺院建築の理論書を読むと、寺院という建物がさしたる根拠もなく選ばれた自然数「四」をもとに構築され、そのため自然ないし大地という多様性に対してそれが本質的な異和性をもっているということを、彼らがはっきりと意識していたことがわかる。大地には、巨大な多様体を表象する「蛇」の女神が住んでいる。人はその上に、自然数「四」を基本にした形式的人工物を建てるわけだ。そこで人は、多様体なる「蛇」の上に建物を築くという人の営みの無根拠性、恣意性をはじめから意識していなければならない。(中沢新一:チベットのモーツァルト)
チベットに戻れ、などと還元主義を煽るのでは決してない。ミニマルこそ、などと言いたくない。けれど、人間には手を出してはいけない表現の領域があるのではないかと示唆するこの建築論にはうなずくことが多い。
山崎さんのスピード感のあるプレゼンテーションは魅力ありますが、手放しで褒め上げるものでしょうか?すべての道路を未来に向けて、より利用しやすいような再インフラ化を促すことには大賛成ですが、全国津々浦々の幹線道路沿いに拡がる全国ネットの店舗や2番煎じ、コンビニ化した安物の景観しか作れていない我々が、どのような根本的な変化を生み出せるのか、解かりません。街も景観も人が作るものです。さらなる利便性がもたらす時空間がどのようなものであり、それがどのように人の内面を変えていくのか、解かりません。ここをおざなりにすると、LA近郊と変わらないことになりはしませんか?きれいに描きすぎのシナリオと感じました。
また、フランスのオーベルジュは年間休暇が習慣化しているフランス特有な労働環境あってのものですし、現在多くは陳腐化しています。都市と農村、郊外との関係は、交通インフラの利便性だけで整理、再構築できるものではないと思います。
中央集権的ではない、群島(アーキペラーゴ)的な国土のあり方、それが引き寄せる人心などについては、すでに建築-都市論、交通論、インフラ論の分野ではまっさらな理論ではありません。
ある目標を志向し、膨大な各研究を横断的に扱える立場が存在しなかったことが、この国の残念なところだったと理解しますが、安易な横断化、シナリオ化には少々疑問を感じます。
スペインやオーストラリアに引退後移住する人は、九州をフロリダ化すれば行かなくなるだろうとは、少々乱暴でしょう。アメリカの、日本とは異なるさっぱりした家族関係があるからこそ、フロリダがあるのではないでしょうか。海外に引退後移住する人は血縁関係を疎遠にすることになっても海外へ移住したい各々の理由があるでしょう。仮に、ある歴史を認識できる国、街だとしても、そこに対する事前の関わりがなければ、その人にとって、にわか作りの田園、郊外と変わらないものになるのだと考えます。高速道路のより利用しやすい再インフラ化は、都市と地方のお互いの心的、情緒的関係を変化させ、また新たに作り出すことになるでしょうし、まずはそこから始まると考えるべきだと思います。地方の再コンビニ化ではなく。
太陽経済への移行への技術的方法論はすでにあるのでしょう。けれど、日本の技術をどのように外貨化するかにとどまったように見える山崎さんのコメントは物足りませんでした。経済的に恵まれ、精緻な技術力を持つ日本こそが、このような新しい文明形態をシミュレートし、世界中にそれを視覚化する、日本こそが可能な新しいリーダーシップの取り方、先進国の義務だと思うのですが。
Jポップの歌い手でも今はアーティストと呼ぶらしい。いまに吉本の芸人もアーティストと呼ばれるのだろう。今日の疲れへのリフレッシュ、それ以上でも以下でもないなら、artと呼ぶ必要は無いだろう。
それを経験したことで、自分の意識の一部のバイアスが取れて、違う世界の一片をみてしまった、もう後には戻れない、そんな経験を引き起こす媒体をartだと呼ぼうと思っている。ハイアートであろうと、サブカルチャーであろうと、自然現象であろうと。その時々に、私にとって。
最初に見たのは、私の東京在住最後の年、1986年の大規模なロスコ展であった。「シーグラム絵画」のいくつかを見たと思う。比較的明るめの展示室だったと思う。ロスコ作品のその大きさか、その鉄色か..何が引き起こすのかわからないが、私の意識の中にこの作品群を受け入れることのできる素地があったのか、心の奥底にこんな洞窟があったのか、そんな感じだった。
昨年末、機会あって千葉、佐倉市の川村記念美術館を訪ね、久しぶりにロスコを目にした。やはり、十数年前と同じ。違う世界への門、窓、扉と言う人は多いし、確かにそうなのだが。
得体の知れないものへ開かれる恐怖、そんな感じ。封印された何かが詰まった箱、それを手にした時の恐怖。いまだ命名されていない何かへの恐怖。わたしはそう感じる。
そこにはそれがないが、それがどこかに絶対に在ることを示している、だから、徴である。
先日、高知沢田マンションにお邪魔した。見学のツアーもあるらしいが、アポなしでお邪魔したので、外観のみの見学のつもりであった。けれども、沢田マンションの共用部や彼の部屋を見せてくれる人が現地で現れてくれて、丁寧に中の案内をいただいた。日差しは10月にしては強く快晴で、けれど風は心地よく、手製のリフトがゆっくりと最上階まで運んでくれた。
この沢田マンションを先に見た友人が「どのフロアにいても大地とつながっている感じがする」と言っていたが、その通り。ゆったりした開放廊下や何に使うの?と疑問符が起きるいくつかの場所など、通常の集合住宅の公私の空間領域の境界があいまいで、プロの設計者ならコストダウンのために初期に切り落としてしまうようなアイデアが散見されて面白かった。マンションだから中を見ると言ってもほとんどはいわゆる共用部分であるが、「中」、「彼の部屋」と言うのが当然に感じるような、ひとつの建物であり、街であるような、あるいはどこまでが地盤でどこからが建物かわからないイタリアやギリシャのいくつかの山岳都市を思い出した。
不動産の権利関係が戸別に設定される通常の集合住宅では、もうこんなことができる精神的、情緒的素地が日本にはほとんど無いのかもしれない。
けれど、この沢田マンションに、神宮前にあった高崎正治の結晶の色、鹿児島のなのはな館の独特な優しさ(適切な表現ではないが)をおおいに思い出した。なぜだろう。
中庭を囲んだコートハウスを設計中。
いつもは比較的都市部の住宅の設計監理が多いので、今回のような建蔽率が低く、かつ広めな郊外の敷地に、コートハウスを作ってみたいとかねてから思っていた。
日本語ではコートハウスと呼ぶが、英語ではcourtyard style houseと言うらしい、カリフフォルニアの友人から聞いた。courtにたくさんの意味があるからだろう。
本日は、クライアントとの打ち合わせ、歓談。
楽しいミーティングからは必ず、好い建築ができる。今までの経験からそう思う。
マークボランが好きで、今も良く聞く。iPodには、彼の曲がいっぱい。
建築歴史の理論では、modernという概念(?)は重要で、今も続いているから、あるいはそこから切れていないから定義できないという、これが研究者からした一般意見だろう。
ポストモダン、レイトモダン、ハイパーモダン、さらにスーパーフラットといったところで、modernが引き起こした怒涛のようなmovement(建築歴史家はこれを能動的な運動と翻訳するからおかしくなる、いわばどうしたって巻き込まれるものだ。)は人類のDNAに記憶されるものであって、何かが終わったからmodernが終わったというものでは決しててない。様式論ではないのですよ。
日本が終戦後、なぜあの戦争に突っ込んだか、なぜ敗戦したかの総括が無かったように、ベルリンの壁が無くなって冷戦が終わったと言われ、資本主義がなぜ勝った(???)の総括が無く、今の底の抜けた状況になってもいまだ総括は必要ないらしい。日本のバブル期に浅田彰が言ったように、世界が日本のように幼児化すると予言したまま。絆創膏を貼るしか手が無いみたい。
さて、久しぶりにTVを見たら、TRexの20thCenturyBoyが流れている。TVに振り返ったら映画「20世紀少年」のPRであった。TRexの曲名ままじゃないか。
20世紀に子供時代を送った友人グループが幼心に想像したおふざけが、時を経て現実化するシナリオらしい。
MarcBolanがバイク事故でポチッと逝ってしまったことを思い出す。20世紀少年は長生きしてはいけないのだろう。
Jacques Attaliの「21世紀の歴史」を読む。彼の早期の「ノイズ-音楽・貨幣・雑音」を読んで以来。アメリカからの金融恐慌をいち早く予言したとされ、NHKで彼のロングインタビューを見たのは、もうそろそろ半年前かと思う。
この著作には少々の疑問符はあるが、とにかく共感できるところ数多く、日本で失われた90年代と呼ばれるころから悶々としていた、私自身の歴史観や都市観の陥没部分を埋めてくれて、なぜもっと早く気づけなかったのかと自省し、やっぱり間違っていなかったな、と回顧した。
沢田研二が「トキオは空を飛ぶ」と歌い、糸井重里は「不思議大好き」とコピーをうち、大晦日に全民放がNHK製作の「行く年くる年」を同時に流すのが終わった1980年代、バブルエコノミーの中盤から東京で仕事についた。
東京がその一部を日本という呪縛から切り離し、日本の首都から全世界のいくつかの主要都市、London、Paris、NYのような国際都市へ変わりつつあるのを実感した。大阪生まれの私にとって、大阪の地盤沈下を憂うマスコミは何も解かっていないと当時から感じていた。国際都市は経済のみならず、その文明力、文化力、その寛容さ、自由さ、活発な人の移動が無ければ、国際都市とは位置づけられないと思う。その意味で、現在成長の著しいムンバイや上海は、東京以上の人を魅きつける国際都市には当分なれない、そう断言する。
けれど、ブールージュやボストン、近年のLAなど、世界首都の歴史を書き綴ったアタリ氏によれば、当時の東京は日本の首都として経済力と技術力を併せ持ちながら、1.政治の未来への志向性の欠如、2.移民受け入れなどの自由な人間活動に対する許容力の無さ、3.Creativity..アートだけではない創造力への投資、価値付けの失敗、この3点を持って、さらなるアップグレードの可能性、つまり、東京が世界首都になる可能性を失ったと語る。同感である。
マイクロソフト、アップル、インテルなどのグローバルIT企業は、80年代にどんな規模の企業だったろうか。こんな急成長をした企業が、それも新興国でないアメリカで成長を遂げたことと比べ、バブル以降の日本にどんな企業が急成長できたか?
数ヶ月前、アタリ氏が政策アドバイスするサルコジ大統領が、GranParis計画を発表したという。Paris市域を積極的に拡大し、ロンドン、東京、NYのような、経済力と文化力を兼ね備えた次代のメトロポリスに転換させるという。EUの中心を目指すのだろう。
全世界から人を魅きつける、文化の厚みをもった日本が、どうしてこんな極東の矮小国になったのか、いくら後悔しても、し足りない。
友人が経営する、芦屋パンタイムが竣工、本日オープン。
昨年末から相談を受け、急ピッチの工事ではあったが、クライアントのスケジュールへの思いやり、工務店さん、業者さんの格別の努力の末、滞りなく本日オープンとなりました。
関係各位 深謝いたします。
ほとんどメディア露出しないパンタイムですが、1店舗のパン屋さんとしては阪神間、神戸を含んでも、破格の人気店。オーナーである友人は非常に気さくで、多くの若い従業員さんがいつも元気にお店を走り回っている。新店舗の設計を相談された時に、「ガレージのような」とオファーされた。正直なところ、最初はわかりづらかったが、たまたま昨年末に訪れたロサンジェルスのマリブやヴェニスビーチの、肩肘張らない、素直な建物であろうと理解した。LAに関する私のブログで書いたような、「普通にカッコイイ」と感じるものにしたかった。もちろん、どこかのだれかの建物に似ていてはいけない。
5,6年前、このパンタイムのオーナーの個人宅を設計した。彼によると、彼の家を見た友人の何人かが、「この家の設計者と新しいパンタイムの設計者は同じ人でしょう?」と聞いたらしい。まったく違う建築だけれど、そんな風に感じてくれる人がいたのは、本当にうれしい。
これからのパンタイムのさらなる発展と充実をこころから祈念いたします。
堕落論、前に読んだのはもう30年も前か。大学時代だったと思う。
そのころ、白井晟一の「縄文的なるもの」に心酔し、何度も読み返した。短文であるから、写経のように書き写したこともあった。白井は、京都の公家文化は生を賭けるには、か細すぎる伝統であり、「細い棒を花や顎の上に立てて見せるこまかい芸当が、拍手されているのでなければ幸いだと思う」と書いた。最近のクールジャパンへの非難かとさえ思える。
昨今、”ものづくりの日本”と各所で語られるが、村上龍の言うように終わった時代への憧憬から引っ張り出された言い回しであろうし、精密なもの、洗練されたものを作ることにおいてのみ、そこにのみ美意識を認める今には、絶望さえ感じる。これがパラノイアでなくて何か?
大阪の中心部ではあったが、関西に生まれて育って、幼少のころから京都や奈良に連れて行かれた。東京から関西に戻った今も機会あれば京都や奈良を訪れ楽しみ、欧州においてもこれほどに見応えある、楽しみ甲斐ある都市はそう多くは無いと心から思う。もちろん、佇まいは良いのである、少しの間住んでみたいと思うし、楽しめることもあるだろう。
が、所詮、か細い<弥生>なのである。
顕微鏡的緻密さと快適を追求する洗練、ともにパラノイアックとさえ言えるほどの過剰を呼び込む工業国日本のお家芸は、70年代から80年代にかけて隆盛を極める。なぜなら、モダニゼーションに最も適した資質を持った国民が、それを最も発揮できる体制が数十年続いたからである。
失われた90年代とそれを引きづるこの約10年間、この日本が停滞し続けているのは、この国こそがモダニゼーションに最も適した体制、資質であったから故、それに対する過度の期待、夢をもう一度の憧憬、こんな心情が今も続き、モダニゼーションとは何か/何だったか、と見つめなおすことがいまだできずにいるからではないのか。
法隆寺なぞ消失しても構わない、と坂口安吾は敗戦間もない東京で言う。この語り口は一種のブラフだと言う人さえいる。
けれど、生まれ落ちたら日本人、やっぱり日本が一番、そのようなイノセントな心持ちでは先がないぜ、と安吾は60年前に語ったのだと私は思う。
バラードが亡くなった。
10代の終わりころ、当時の創元推理文庫にあった「狂風世界」「結晶世界」「溺れた巨人」などなど...当時はただ、SFジャンルとしてしか一般的には認知されておらず(カテゴライズされておらず)、何がSFだ...西部劇みたいな勧善懲悪な、宇宙人との戦闘場面ではないぞ...と思っていた。
バラードの、黙示録的に、壊れていく...地獄の底が抜け、どんどんどこまでも壊れていく世界。
理由はわからないが、ものすごく魅かれた。
クローネンバーグが映画化する、後期の「クラッシュ」で、Rosannna Arquetteを知った。かの女優はPulp Fiction にも端役で出演。彼女は一時期、Peter Gabrielと暮らした時期があったと聞いた。
Peter GabrielがDeep Forestとコラボレーションで作った曲、”While the earth sleeps”(本当にいいタイトル)は、近未来のL.A.(実は設定は西暦2000年)を描いた”Strange Days”のテーマ曲であった。
”Strange Days”はほんの少しのハッピーエンドで終わるのだが、なんとも悲しい映画であった。エンドロールでいくつかの場面がピックアップされてこの曲が流れるのだが、映画の中の、フィクショナルな人物すべてが、当たり前なのだけど、この映画の中にしか生きてられないと感じるような、それを知った悲しさだった。
昨秋、機会があって鎌倉へ出向いた。東京に10年以上住みながらあまり訪ねる機会が無かった。東京の友人と久しぶりに会おうと思い立ち出かけた。東京に住んでいたころの私にはあまり鎌倉に縁が無かったのだが、実は血縁関係からすると神奈川、特に逗子、鎌倉には深い縁がある。私の3代前はあのあたりで土建会社をしていたらしく、近代以降の新しい隧道の多くを手がけていて、仕事のテリトリーは下田まであったと聞いた。
さて、鈴木清順監督のツィゴイネルワイゼンが好きで、月に一度くらいはDVDを眺めている。あの世とこの世の境い目としてでてくる隧道、釈迦堂の切通しを見たくて、まだ残暑残る鎌倉を歩いた。崩落の危険性があるのだろう、一応は通行禁止と立て札は出てはいるが、通り抜けられる。
夢と現実の境をなくしたような、奇妙な二人の男と一人の女の物語。この切通しの先には、片方の男の家がある設定でツィゴイネルワイゼンの中では、特に重要な場面にここが写される。
京都、奈良に幼いころから親しんでいた私にとって、京都、奈良は気分の落ち着くゆったりとした場所ではあるが、やはり宮廷文化、公家文化であり、今で言えばハイアートの世界である。その上、観光客は世界中から集まり、ちっぽけな祠にさえちゃんと手がかけられて、メンテされている。
比べて、一方、鎌倉は、なるほどクールジャパンのトレンドも手伝ってか、以前よりも観光化されてはいるが、京都、奈良の比ではない。明日倒れそうな地蔵を見かけたりする。まあ、文化庁の予算もまったく違うのだろう。さらに、住宅地が、この釈迦堂の切通し間際まで迫っている。
けれど、そうであるが故に余計に、今現在と500年前が居心地悪く隣り合っているような気がして、なんかの拍子に向こうへ、つつつっと、つながるような気さえした。
切通しや岩山の切り崩しを多く見ていると、これらのどれほどが自然の要衝として鎌倉を選んだ武士たちの成したものなのかはわからないが、彼らの切迫した気迫を感じた。過去の政体にはなんの由来もない政府を作り上げること、おそらくは古来からの占部に耳を傾けたかもしれないし、おだやかな弥生を通り越して、縄文の声を聞いたかもしれない。白井晟一が”縄文的なるもの”で絶賛した、韮山の江川邸を見たときのように古代につながる場所だった、私にとっては。
この切通しを抜けて、少し休憩していると、湿気と暑さでまるで夏なのに、私の吐く息が白く曇った、冬のように。ああ、彼らが来たな、と思った。
ヨーロッパ言語のうち、ラテン系の言葉、たとえばスペイン語、フランス語では、歴史という意味の言葉に物語という意味が大きく付与されている。歴史は人間が定義する、勝者のための歴史、などなど日本でも理解されていると思う。
しかし、ある時代のある人が、過去の歴史を身のうちに引き受けて、模倣、捏造、改造、破壊、とにかく結果は問わないとして、自分の生きた時代を何かでもって表現する。このことに今の日本人は無頓着ではないか。いや、20世紀後半の他のアジアはもっとひどかった。
ヨーロッパでいつも感じたことは、いくばくかの西洋人が、自分の生きた証として、いわゆる芸術を求めているという、そのことである。何も、いつもハイアートで無くてよい。ポップでもよい。衣食住のように必要とする人たちが、数多くいるのである。
ケーススタディハウスはデザイン論としては、カリフォルニアに花咲いたモダニズム、ミッドセンチュリースタイルだろう。けれど、あれらを欲した当時のニッチは、彼らの両親の世代以上に豊かになり、彼らの両親が愛した様式を拒絶したと考えるべきではないか。
pacific parisadesにあるEames house、Veniceの小さな通り(Strongs drive)の、趣味のいい住宅群。いかにも遊びなれた、人生を楽しみ慣れた人たちの家だった。Malibuもそう。決して建築家的なアヴァンギャルドではないが、そのハイスタイルではない趣味のよさ、ハイスタイル志向のより強いヨーロッパとは異なる自由さ。
普通に格好いい、とこんなときにこそ使うのでしょうか?考えること、あまりに多かった。
たそがれ時にF.O.Gehryの自邸近くを歩く。こんなにどっしりした風格のある(言葉が見つからない)住宅だとは知らなかった。数日後、GehryのWalt Disney Hallと、KahnのSalk Instituteを見るのだが、私のKahnに対する印象が大きく変わった。
昨年末に、景気が悪いけれど悩んでもしょうがない、エエイとばかり、LAに行った。
ドーナツ屋....まま。いわゆるダック建築。まだこんなのあるのかぁ、という感じ。日本にもたくさんあるけれど。
本当にオイル掘ってる。LAX近く。
それにしても、LA近辺のフリーウェイの車の多さ、その半分以上がいわゆるアメリカンサイズのピックアップや大型のSUV。日本で見かけると、ファンの方には申し訳ないが、無駄に大きいとしか思わない。
けれど、本国の狭いレーン、それも6車線もあるフリーウェイで大挙して走っているのを見ると、少し恐怖感を感じた。緊張して運転しているからか?阪神高速よりも狭いレーンかなと思ったからだろうか?また、飛ばす車は150kmくらいで走っているからだろうか?レンタカーの極端なアンダーステアからか?数日で慣れたけれど.
LAのMid Wilshireという地区の感じのいい住宅街。ハリウッドのショービズで働く人が多いらしい。今も個人住宅として使われているのはもうすでに非常に少なく、ほとんどがアパートメントにコンヴァートされていると聞いた。いわゆるスパニッシュスタイル、けれど、スペインの都市住宅ではなく、田舎家風。ていねいにメインテナンスされているものも多く、見ていて楽しい。ディテールもきちんとしていて、スペインに由縁のある大工さんが一生懸命作ったんだろうなという感じ。今も木製の建具が使われている建物が多く、ああ、日本では無理だなぁ、暑さ寒さがカリフォルニアとは違うから。いや、アルミサッシュが安すぎるせいか?木製サッシュが高すぎるせいか?
それにしても、歩いていて楽しい住宅街の、日本にはなんと少ないことか